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第十四章 第2話

「研修医風情が差し出がましい口を」とでも言いたいかのような憎悪の視線を背中に浴びてドアまで歩く。   背中に集中した祐樹は最愛の彼の視線が幽かに混じっているような気がして……まだ愛想尽かしはされていないことに安堵した。それはほんの一瞬背中を掠めるだけのものだったが、山本センセが教授室にどっかりとしかも暑苦しく居座っているのだから仕方がない。  それに、祐樹は山本センセが一筋縄では行かないことは想定内だった。一番の危惧は逆上した山本センセに教授が危害を加えられることで……彼が1人で教授室に居てセンセを事情聴取した場合、姑息な手段を好んで取る――興信所に依頼するなどその最たるものだと思っていた――人間は小心者だろうな……とは思っていたが、逆に窮鼠猫を噛むというコトワザもある。小心者だけに逆切れが怖かった。  祐樹の感触では、木村センセの方が証言を引き出しやすいのではないかと思われた。そんなに良くは知らない人だが、山本センセほど性根が腐っているとも思えなかったのだ。しかも、山本センセは木村センセに罪を被せようと躍起になっている。ここに2人の溝を感じた。  最愛の彼の隣室に秘書が戻って来た今、彼も暴力沙汰は慎むだろう。それこそ、明らかに教授派の祐樹が万が一「暴力を受けました」という真実の告発をしても、悪質な派閥抗争だと斉藤医学部長辺りは判断するかも知れない。が、秘書の場合は佐々木前教授時代から忠実に務めている女性だし、ことさらどちらの味方でもない。その彼女に教授室の様子を、言葉は悪いが盗み聞きをしてもらおうと思った。  教授室を出て、その隣のドア――教授秘書の部屋だ――をこっそりとノックする。  ドアが開いて怪訝そうな彼女が顔を出す。人差し指を唇に当てて、廊下へ呼び出す。 「少々トラブルがありまして……誠に済みませんが、教授室との仕切りのところに山本先生が退室するまでずっと居て、言葉は悪いですが……盗み聞きをお願いします。  もしも、山本先生が暴力沙汰に及んだら、医局と齋藤医学部長に速やかに連絡をお願いします。出来れば、電話の子機を握っていて下さい。そして……万が一の時には秘書の鑑でもある貴女のことです。短縮に両方の番号を記憶させていますよね?それで電話をお願いします」  祐樹の切羽詰った口調と表情に常ならぬものを感じたのか、敏腕秘書は頼もしく頷いた。  黒木准教授の部屋は一階下に有ることは知っていた。入ったことはなかったが。まぁ、研修医の分際で教授室や准教授室に入る方がおかしいのといえばおかしい。  白衣のポケットに入れていた電話が着信を伝える。表示を見れば案の定最愛の彼からの電話だった。山本センセが来る前に筆談で話していたことを覚えていてくれたらしい。彼の明晰な頭脳では確実に覚えていると信頼はしていたが。  声を出さずに聞いていた。山本センセは「木村センセの手切れ金のために武士の情けで入金の手伝いをした」と言い張っていた。教授が論理的に追及しても、鸚鵡のようにそれを繰り返すだけだった。色々な言葉を使っていたが、結局は同じ言い逃れだった。  フト思いついて、電話の内容を録音モードに切り替える。  一階下なだけなので、祐樹は階段を使って下りていった。ネームプレートを探すのに少し苦労をしたが黒木准教授の部屋に辿り着く。流石は旧態依然とした大学病院だ。一階上の教授のエリアよりも絨毯の質も落ちるし、ドアに使用されている木材も教授室に比べると薄い。そっと内部の音を拾おうとドアに耳を近づける。が、黒木准教授の声が時折聞こえるだけだった。  ドアをノックして、声を掛けた。 「田中です。教授に全権委任していただいて参りました」 「ああ、どうぞ」  心なしか、黒木准教授の救われたような声がした。  許可を得て入った准教授の部屋は、適度に散らかっていて、香川教授の几帳面な部屋とは全く雰囲気は違うが、黒木准教授の人となりを表現するように居心地は良かった。教授室よりも狭いのはヒエラルキー社会である大学病院だからだろう。 「良く来てくれた。香川教授から『田中先生が事情を良く知っているので、彼の言葉は私の言葉だと思って下さい』というメールを貰っていますよ」  温厚そうな黒木准教授は困りきった顔を祐樹に向けた。木村先生からは死角になるところで話す。 「彼は何か言いましたか?」 「いや、私の部屋に来てから挨拶以外は何も喋ってくれなくて困っていまして……」 「そうですか……。では私が話して宜しいですか?」 「本来ならば職務規定により、『医局員の事情聴取は准教授以上がこれに当たる』と有りますが、今の田中先生は香川教授の委任を受けているので構わないでしょう」  黒木准教授が困惑した様子で、穏やかな顔からしたたっている汗を拭った。かなり手こずっているようだった。  祐樹が応接セットの椅子に座っている木村センセの前――黒木准教授の横――に座ると木村センセは静かな一瞥を向けたきり、音なしの構えだった。  この人は何も言わないことで自分の身と山本センセの身を庇っているな……と思った。これは奇襲戦法しかない。 「星川ナースを妊娠させ、堕胎させたのは先生ですか?」  単調直入に問いかけた。先ほどまで凪いだ海のようだった彼の表情が驚きへと変化する。木村先生の平凡な容貌に険しさが加わった。先ほどまでは平静な顔だったが。 「そして、その関係の清算と口止め料のために、銀行にお金を振り込んだ?違いますか?」 「何を言っているのか全く分からない。そもそも私は彼女と付き合ってはいない」  静かに口を開く木村センセに嘘の気配は感じなかった。やはりな……と思う。 「そうなんですか?付き合うのは個人の自由ですが、この大学病院所属の医師が付き合ったナースを妊娠させ、堕胎させた。これは服務規程に抵触しますよね?」  黒木准教授に話しを振る。 「公序良俗に反する行為なので当然抵触するが……?まさか木村先生に限って…」 「私はそのような男として最低の行為をする人間ではない。万が一付き合ったとして、相手の女性が妊娠したらキチンと責任は取る」  気色ばんだ口調だった。祐樹は内心ほくそえんだ。 「そうでしょうね…しかし、そう主張しているのが他ならぬ山本先生なのですが?それも教授の前で」  木村先生が耐え切れないように瞳を硬く閉じた。数秒後掠れた声で祐樹に聞く。 「そ……それは本当のことなのか?」 「ええ、本当です。何なら証拠を……」  携帯電話を操作して木村センセにも聞こえるようにした。

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