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第十四章 第1話

 部屋に静寂が満ちる。教授は冷ややかに山本センセを見詰めている。祐樹も山本センセの表情の変化を見逃さないように努めながら――まさか教授室で暴力沙汰にはならないだろうが――彼の一挙一動を見守っていた。 「実は、木村先生が星川さんと付き合っていて……。しかし、彼にいい縁談が来たことから手切れ金が必要となって……」  瞳を泳がせて山本センセはしどろもどろに言った。教授は呆れたような表情をする。祐樹も明らかに嘘を吐いているのが分かる山本センセの顔を皮肉で挑戦的な笑みを浮かべて睨みつけていた。  2人の顔を交互に見て山本センセは貧乏揺すりを始める。星川ナースにお金を渡したり、祐樹の身辺調査を――恐らくは大金を積んで――依頼したりした張本人とは思えない狼狽ぶりだった。 「手切れ金ですか……?しかし、そういうお金は一括して支払うものだと仄聞していますが?それに交際した相手に対して関係を清算する時にはお金ではなく別れ話をするだけで十分なのでは?」  教授は冷ややかな表情と口調で言う。祐樹はこの人もこんな表情が出来るのだな……と彼の意外な一面を見た思いだった。何だか突き放したような凍てつく空気を纏っている。  祐樹と一緒にいる時には絶対に見たことがない雰囲気だった。  皮肉な冷笑も彼の硬質な感じがする美貌には良く似合ってはいるが…。祐樹に向かってこんな表情と口調を向けられたら多分一年以上は立ち直れないな……と思う。  山本センセは教授の言葉に肩を震わせた。適当な言い訳が出て来ないようだった。多分、金銭の授受までを把握されているとは予想もしていなかったに違いない。祐樹はこれまでの調査――と言っても実際に動いてくれたのは杉田弁護士だったが――や2人きりの時の言動に気を付けて良かったとしみじみ思った。もし、盗聴器に気付かなければ一番バレては困る教授との関係を知られてしまうところだった。  その上、山本センセを疑っていることを口に出して言ってしまって相手に対策を講じさせる時間を与えたに違いないので。  最愛の彼に誤解を与えた点は忸怩たる思いだが、今のところはそれが正解だったような気がする。 「その上、どうして木村先生と星川ナースの関係の清算に山本先生がお金を支払うのか理解に苦しみますが?」 「それが……彼に相談されまして……、一括では支払い切れないので私も手を貸すことに決めたのです……言わば武士の情けで……」 「それならば、彼にお金を貸すだけで済んだのでは?わざわざ山本先生が銀行に行って入金する必要性は無いのでは有りませんか?」  山本センセの顔からは汗が蒸発した暑苦しい湯気が立ち上っている。僅かに眉を顰めて涼しい口調で聞いている彼とは好対照だった。 「まだ、何故関係の清算に金銭が介入する理由を承っていませんが?」 「そ……それは……。じ、実は……手切れ金が必要だった理由は、彼女を妊娠させたことがあって……」 「なるほど…それで木村先生が関係を清算する時に俗に言う口止め料として金銭が必要だったと……そういうことですか?」 「そうです。やはり、彼女の身体を傷つけたことに対する慰謝料のつもりで木村先生は……」  絶対に嘘だと思った。木村センセと星川ナースがそんな関係だったとしても山本センセが100万単位の金銭を支払う必要はないし、ましてや、2人の関係はどこからともなく漏れてくるハズだが……そんな気配は皆無だった。祐樹の回りのナース達はそういう情報は敏い。それに人体の異変に職業柄敏感な彼女たちはそんなことがあったら絶対に祐樹にも耳打ちしてくれるハズだった。 「それでは、あくまでも木村先生が星川ナースを傷つけた件を助太刀として、この金額を支払ったというわけですね?」  彼の白く長い指が銀行の開示書類の該当箇所を叩く。彼がちらりと祐樹を見た。完全に信じていない表情だった。それはそうだろう。彼はずっと星川ナースの手術室での振舞いに苛まれてきていたのだから。ただ、それを立証する手段がなかっただけで。ただ、男女問題のこじれで押し通すつもりの山本センセへの打開策も考えあぐねているようだった。  これは木村センセの言い分を聞く必要があるな……と祐樹は思った。が、この中で一番席次が低い祐樹は表立ってイニシアチブを取ることは出来ない。ふと妙案が浮かんだ。 「随分と都合の良い話ですね。ただ、そのお話しでは、星川ナースを妊娠させたのが本当に木村先生だとは思えないのですが。逆に山本先生ということも有り得ますよね?」  席次が下の祐樹の挑発的な発言に、山本センセは教授に向けていた目を祐樹に向けた。それは明らかに憤怒の表情だった。時計をちらりと見て時間を確かめていた祐樹はもう大丈夫だと分かった上で狙いすませた発言をした。 「たかが研修医の田中君にそのように追及されるような立場ではない。分をわきまえたまえ」  押し殺した怒りの口調に、教授は心配そうな眼差しで横に座っている祐樹に送った。 「そうですね。確かに立場上、申し上げてはならないことでした。ただ、私ならもっと上手くやりますよ。少なくとも銀行を経由してお金のやり取りはしませんね。  それに、ダテにこの病院に長く居ているわけでは有りません。星川ナースについての噂は香川教授よりは良く存じています。彼女が勤務医ごときと深い付き合いをするような女性でないことも。  これはナース達は良く知っています。私の色々な科のナースの噂を良く聞きますから。星川ナースは大学病院の勤務医の給料がどれくらいか良く知っています。勤務医ごときではなく開業医と結婚したいと漏らしていたことも……。そう言えば山本先生のご実家は確か有名な病院ですよね?つまりは、この病院を辞められてもご実家では優遇されるのではありませんか?ならば星川ナースの狙いは……」  ワザと挑発するような視線を向けた。山本センセは裏では色々と動くだけの実行力は持っていそうだが、いかんせん瞬発力には欠けるようだった。精神的にも肉体的にも。教授室の隣のエリアに人の気配を感じた。やはり教授秘書は時間に正確だ。万が一、山本センセが暴力に訴えようとすれば彼女が人を呼ぶだろう。最愛の彼が怪我をすることが有ってはならない。 「失敬な。私が星川ナースとそういう関係に有ったとでも?」  歯軋りが聞こえて来そうな勢いの言葉だったが、祐樹もそれを狙っていた。 「分をわきまえない失言でした。部外者はこの辺で失礼致します」  教授にこっそりと目配せをして部屋を出た。

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