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第十三章 第24話
ふと思いついて山本センセが入室する直前に、これまでで最速だと思えるようなタイピングで彼のパソコンに入力した。
『黒木先生が木村先生の事情聴取をしている場所に入室出来るように予め許可を下さい』
彼が頷くのを見て、これもまた最速で彼の執務机の前に立つ。
と、その瞬間、山本センセが幾分オドオドと扉を開ける。いつもは取り巻き達に囲まれて豪放磊落を気取っていたものだったが。今回は借りてきた猫のように大人しい。
「お呼びと伺いましたが……」
「山本先生に是非お聞きしたいことがありまして、ご足労頂きました」
彼の口調も表情もいつもの秀麗な明晰さを保っている。そのことにまず安堵した。彼が先ほどまで祐樹に見せていた不安定さは、綺麗さっぱり払拭されていたので。
彼は祐樹などよりももっと外科医向きのメンタリティも持っているらしい。もちろん技術も外科医としては祐樹が知っている限り最上の腕前の持ち主だが。
気持ちの切り替えが早いというのは外科医として必須の条件だ。彼は術死の経験はないと言っていたが、殆どの外科医は全力を尽くしても助からない患者さんと向き合っている。全力を尽くせば尽くすほど助けることが出来なかった患者さんの死は外科医の精神に重く圧し掛かる。しかし、次の患者さんが運ばれて来た時には、死亡させてしまった患者さんのことを引きずっていては最悪のドミノ倒しになる。
気持ちの切り替えが重要なのだが、香川教授はその辺りのことも――彼に術死の経験がないというのは奇跡的なのだが、逆に言うと患者の死亡も見てなかったということになるまあ、それは彼が医師になってからで、医大生の頃に救急救命室の時にどういう経験をしたかまでは分からなかったが――会得しているらしい。
彼の先ほどまでの、春の嵐を前にした桜の花びらのような儚げな様子はすっかり陰を潜め、いつもの「香川教授」になっている。その凛とした姿に祐樹の心拍数は上がる。
彼に心の底から惹かれていることはもう自覚していたが。オフィシャルな場面ではこんなに強い人なのに……、祐樹の前でだけ弱みを見せることへの意外性が、祐樹の心を鷲掴みにする。どんどん彼に傾いて行く心の傾斜が、さらに鋭角になって行くことを自覚した。
「私は香川教授がお呼びだとお聞きして参りましたが……。研修医の田中先生までが同席するのは、大学病院の序列からすると考えられないことです。その点をご説明いただけますか?」
山本センセは、祐樹の方に視線を当てて「何故、お前がここにいる?邪魔だ」とでも言いたそうな眼差しを送った。
こんな視線は例えば香川教授のような時として冷たく感じる美貌ならばサマになるが、メタボ一直線で、顔の造作も神様が適当に作ったのだろうな……と思うような山本センセに睨まれても祐樹としては痛くも痒くもない。何だか、動物園の檻の中に居るパンダに凄まれているような気がした。パンダも熊科の動物なので、野生のパンダに出会ったとしたら祐樹も逃げるだろうが、所詮は檻の中のパンダだ。怖くも何ともない。香川教授の涼しげな声が二人の睨み合いを遮った。
「田中先生には、色々とご協力をしてもらいましたので、同席を許可しました。もちろん研修医である田中先生と、山本先生では全く病院内のヒエラルキーは全く異なることは承知しています。もし、山本先生がご不満ならば田中先生の退室を求めますが……」
一見譲歩しているような言葉遣いに山本センセは毒気を抜かれたらしい。口の中で何かを呟いてはいたが、言葉になることはなかった。
何だか言いたいことでもあるのか意味ありげに教授と祐樹の顔を交互に見ていたが、結局は黙っていることに決めたようだった。
「ただし条件があります。私が退席して欲しいと申し上げたら田中先生には遠慮願うということで宜しいでしょうか?」
五月だというのに汗に濡れた白衣が暑苦しい。どうやら多汗症らしいが。涼しげな佇まいを見せる教授とは別の人種に見える。確かに祐樹は異性よりも同性に惹かれるタイプだが、同性ならば誰でも良い訳ではない。それは異性愛者でも同じだろう。「好きな異性」と友達にしかなりえない異性がいるように。山本センセに惹かれるような気持ちは全くない。彼は異性愛者のようだが、果たして「医師」という肩書きを取ってしまったら普通の女性は鼻も引っ掛けないに違いないな……と思った。よほど特殊な趣味を持っている女性以外は。
教授も執務用のデスクを立って――といっても書類フォルダーを持ってはいたが――応接セットに彼を導く。祐樹にも視線で座るようにと促してくる。
どうやら、山本センセが退室の要求をする時までは祐樹もこの部屋に居ることを許されたらしい。
「さて、この書類に驚くべきことが書いてあります」
低いが涼しげでよく通る教授の声が静寂に包まれた部屋に響く。まるで神のご託宣のように。
彼の白くしなやかな指が、書類フォルダーの中の1ページを開いた。もちろんそれは杉田弁護士からの開示請求書類だった。そこには星川ナースへの入金記録が名前入りで書かれている。
「どうして、手術室のナースにこんな大金を振り込む必要が有ったのか、私にも納得出来る説明をお願いしたいのですが……?」
その書類をマジマジと、それこそ穴の開きそうなほど見つめていた山本センセの身体がみるみる強張った。額には大粒の汗が流れている。
「どうして、こんな書類が……」
そう呟く山本センセの声が震えていた。それはそうだろう。自分の名前で星川ナースへの金銭提供がなされている証拠の書類だ。多分、絶対にバレないと踏んでいたに違いない。
「最近は銀行も不透明なお金の流れに敏感になっています。入金の時に身分証明書の提示などは求められませんでしたか?」
彼の声が絶対零度の冷たさを帯びたような気がした。
「た、確かに星川ナースへは入金しました。ですが、それは、親しくしていた木村先生に頼まれて、名前を貸しただけなのです……」
額からしとどに汗を流して必死の表情で言う山本センセに、彼の怜悧な声が被さった。
「どうして、こんな大金を星川ナースに渡す必要が有ったのですか?」
研修医としての身分を弁えて黙って聞いていた祐樹だったが。まさか当の教授を目の前にして彼の手術妨害のためだとは言わないだろうな…と思った。
しばらくの間視線を宙に泳がせていた――多分というよりももっと可能性が高い――祐樹に盗聴器を付けるように依頼した張本人は、祐樹や教授がここまでの事実を掴んでいるとは思っていなかったのだろう。それはそうだ。祐樹があれほど細心の注意を払って、なおかつ最愛の彼を悲しませてまで隠蔽工作に励んでいたのだから。山本センセがどう言い訳するかが見ものだった。これまで祐樹の最愛の彼をあんなにも悩ませた張本人(だろう、おそらく)がどういう申し開きをするのか、半ば意地悪げな気持ちで待ち構えていた。
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