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第十三章 第23話

 ああ、今の言葉を口にもう一度入れて無かったものに出来る方法が有ればいいのに……と真剣に思った。  祐樹も大学病院での処世術をそれなりには学んできた。執刀医に対する不平や不満が有ったとしてもそれは絶対に言ってはならないことだとは肝に銘じていたし、事実、今までは祐樹もそんな失言をしたことは皆無だった。  祐樹が手術のスタッフに選ばれたのは彼の手術だけではない。他の執刀医の手術に参加していて(あ、これは明らかにこの術式でしたほうが患者さんのためになる)と思ったことは数知れずだった。が、そんなことはおくびにも出さずに執刀医の先生には心無い賞賛の言葉を掛けてきた。それが自然に出来るようになっていたのだが。  それなのに彼にはツイ言ってしまった。パソコンの画面に集中していたとはいえ、祐樹の普段の集中力分散方法ではそんな失言をしてしまうほどヤワではないと自負している。   彼の手術のミスでも何でもない、ごくごく僅かな劣化がツイツイ口から出たのは、多分、彼が零した綺麗な涙を見て祐樹も平常心を失ってしまったからだろうとしみじみと思った。  彼の涙は、薄桃色の薔薇に水滴が滴っているような感じでとても綺麗だったが、祐樹の罪悪感が増幅された。その結果、ポロっと本音が出てしまったのだろうと自己分析する。  それほど彼の職場で流した涙は祐樹にとって衝撃的だった。彼の涙で内心が激しく動揺していたゆえの失言だと、今となっては確信出来る。 「あのう……。私の私見ですし…そもそも気のせいかと思います」  必死にフォローをしてみたが。彼は儚げな微笑を浮かべた。彼の色々な表情を見てきたが、これほど心に染み入るような、悲しさが具象化されたような笑顔を見るのは初めてで心が痛んだ。身体の痛みのレベルで言うと、祐樹は悪性新生物――いわゆる癌だ――の専門医ではないが、末期の患者さんが積極的治療を諦め、モルヒネなどで痛みを除去する緩和ケアを希望する程度には。 「気のせいではない。今回の手術は私にとってもとても不本意な手技だと反省している。常にベストを尽くしたいと思っているのだが……色々有りすぎて、私が目指す手の動きが出来なかったのは厳然たる事実だ。私の評価では50点だな……」 「医師は機械ではありません。毎回完璧を求める教授は素晴らしいです。とても尊敬しています。  それに、教授にはご心労もお有りにになるのですから……この際は仕方がなかったと思いますよ。手技も0,数秒の遅れなら、患者さんにも影響はないでしょうし……」  必死にフォローしていると、彼は目を見開いた。先ほど涙を零したせいか、目が充血しているのも痛々しい。 「良く分かったな……。私は今回の不本意な手術を指摘するのは柏木先生だとばかり思っていた……」 「柏木先生は、全く気付いてらっしゃいません。術後にこっそり聞いてみましたが今回の手術はいつもと変わりなかったとはっきり仰っていましたから」 「……そうか。ゆ…田中君が気付いたというのは、やはりそれだけ君が進歩しているからなのだろう」  静かな口調だが――祐樹の思い違いでなければ、その中に僅かな喜色が含まれている――で彼は言った。   先ほどまでの硬い声は影を潜めている。少しはフォローになったかと思うと、心の底から安堵がこみ上げる。彼の口から「田中君」という呼称が出たのは彼も、まさか盗聴器の存在までは気付いていないのだろうが。誰かに聞かれている可能性を強く自覚したからに違いない。  この部屋に盗聴器が設置されているかどうかは分からないが、多分有るのだろう。では隠しカメラが存在する可能性は?と危惧したが、カメラのレンズは大きすぎる。祐樹の住む町は国宝級の寺院や建物が多い。当然皇室関係の御所などもあるわけで……特に御所は春と秋には一般公開されている。  が、御所は、現在でも皇室関係者がこの街にいらっしゃった時には宿泊所となる。いつだったか、佐々木教授が学会で知り合った外国の有名な教授がプライベートでこの街にいらした時に祐樹も手伝い要員として参加したことがあった。その国際的に著名な教授には特例として一般には入れない場所まで見学を特別に許可されていた。祐樹は読む分には全く問題がないが、会話は苦手だったので単なる荷物持ちだったが。  御所の奥深くには監視カメラが随所に設置されていた。皇室関係の監視カメラは警察もことさら力を入れているという噂だったので注意深く観察したことがある。警察の最新型カメラでもレンズは大きかった。そういう物はこの部屋には見当たらない。 「それは優れたオーベン(指導医)のご指導、ご鞭撻の賜物です」 「いや、そうではないだろう。田中君の手術のセンスが良いということだろう…これからも田中君が手術のスタッフに入ってくれれば、私ももっと質の高い手術が出来そうだ。宜しく頼む」 「はい、末永くご指導ご鞭撻をお願い致します」  彼にそんな評価をしてもらって嬉しくないハズはない。彼は花が綻ぶよりももっと綺麗な微笑を一瞬だけ浮かべた。そして先ほど祐樹が今日の手術のことをポロリと言ってしまった時の彼の硬直さは幾分、改善されたようだった。微笑は一瞬だけでまた切なげな表情に戻ったが。そんな顔は彼にはさせたくない。咲き初めた桜の花のような笑顔をいつも見ていたいのに。  一体どの言葉が彼の気持ちを慰撫したのかは分からなかったが。 『山本センセと木村センセの事情聴取なのですが、2人同時に行いますか?』 『いや、私の方で経歴書などを見た結果、多分山本先生が一番怪しい。なので、私は山本先生と話している時に黒木准教授が木村先生と話すように取り計らった』  彼へのフォローの時は、そちらに必死だった。パソコンを使った筆談は止まっていた。一応の解決をみたので、そちらのほうを再開させた。  賢明な判断だな……と思う、当事者を一堂に会して事情聴取するよりも口裏を合わせることが出来ないように別個に話を聞くというのはいつぞや杉田弁護士とゲイ・バー「グレイス」で珍しく客が居ない時に世間話として聞いたことがある。祐樹が山本センセと木村センセの情報を集めていたのと同様に彼は大学の経歴書でも見て彼なりに山本センセが本命だと当たりを付けたのだろう。そうでなければ、彼が山本センセの尋問には当たらないハズだ。 『山本先生ですか。彼は肩書き至上主義者みたいですし、私が同席するのは逆効果かと。もし、その件で異議申し立てをした場合は、携帯で話しを聞かせてもらえませんか?』 『分かった。そうする』 『ただ、教授お1人で事情聴取というのも、相手が逆上すれば危険ですので……柏木先生をお呼びした方が良いかも知れません。まだ彼が同席するほうが私よりは抵抗が少ないかと』 『分かった』  その筆談を終らせて教授は内線電話をかけて柏木先生を呼び出している。そういえば、秘書エリアに人の気配はない。いつの間にかランチタイムへと旅立っていったようだった。  多分声は掛けられたのだろうが、フォローに必死だったせいもあり全く気付かなかった。 「山本です。ただ今参りました」  いつもは軽薄そうな声が常になく強張っていた。 「ああ、入ってください」  祐樹が彼の隣ではなく、机の前に移動し終わるのを待って教授はそう返事をした。

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