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第十三章 第22話

「はい、もちろんです。私は貴方の部下ですので。何でもご命令下さい」  第三者の耳を意識して話す。後で会話が流出しても良いように優等生的な答えをと思っただけなのだが。隣室には彼の秘書も居る。盗聴器の件は知らないにせよ彼女の耳を意識して会話は自ずから制限されることも明敏な彼は承知の上だと思ったのだが。  祐樹の言葉を聞いた瞬間から彼の澄んだ眼差しが不自然に揺れている。まるで、空間に答えが書いてあるのを探すかのような……そして、祐樹の顔に瞳の涼やかな光が当たると、切なげに、物問いたげな余韻を残して速やかに祐樹の顔から彼の視線は外される。  そして卓上に置かれた長い指の震えは――通常、神経性の震えであれば、手を空間にかざすと揺れているのが素人目でも分かる。が、平面の物に手を付けると分からなくなるものなのに――机に置いた白くしんなりとした指の震えはさっきよりも酷くなっているのが分かる。 「ゆ……」  唇が上手く動かないらしい。彼は仕事関係だと極めて明晰で明瞭な発語をするが、祐樹と2人で居る時――多分、彼の気持ちを伝えようとしている時だろうと推察しているのだが――。  ただ、今「祐樹」と呼ばせてはマズイと思った。盗聴器が仕掛けてあるのならば、聞いている人間に、多分興信所の所員だろうが……2人の親密さが分かるだろう。真実の関係までは分からないだろうが。教授職の彼が研修医ごときに名前呼びは絶対にしないのがこの病院の「常識」だ。  それに、今日教授が山本センセや木村センセに呼び出しを掛けたのなら、盗聴器の電波の先には所員だけでなく2人も居るかも知れない。どのくらいの情報を教授が握っているのかを知りたくなるのが人情だろうから。  会話は……無理だ。それに、彼の不安定さも気に掛かる。彼の揺れる綺麗な瞳の吸引力は相当なものだったが、敢えて目を逸らして考えた。彼のデスクのパソコンを見た瞬間に心を決めた。  そして、彼を見た瞬間絶句する。彼の男にしては滑らかな白い皮膚に涙が銀色のネックレスのように滴っていた。彼が涙を流すところは見たことは有ったが、それは主に情交でのことだった。昨夜の神社での逢引の時、彼は涙の雫は零してはいたが。こんなに連続した涙の川は初めてで。綺麗な人は何をしていても綺麗だが、その分罪悪感はずっしりと胸に響く。  唇に手を当てて「黙って」の合図を送る。彼は息を飲み、瞳は母親とはぐれた幼子のような光を帯びて祐樹を見ている。その動作にも……。  足音をさせないように……といっても教授室は豪華な絨毯が敷かれているのでその点は楽だ……彼の方にゆっくりと近付く。祐樹が一歩前に出る度に、彼の身体はどんどん竦んでいく。彼の横に立った時には彼の若木のような身体は岩石のように硬くなっていた。  抱き締めて、その身体を弛緩させたいと切望してしまう。だが、隣室には秘書が居る。   イキナリ入って来られると申し開き出来ない状態を見せてしまうことになる。彼の尖った肩骨に手を置いて、せめて安心して貰おうと思ったのだが。置いた瞬間、彼の身体がひくりと跳ねた。  決して欲望のせいではなく、恐らくは恐怖のために。その恐怖は祐樹が今日の彼にとっては不本意な手術(だろう……)を弾劾するとでも思ったせいなのか、それとも他の理由なのかは分からない。他の理由だったら嬉しいが。  彼は自分が涙を流していることにすら気付いていないようだった。祐樹が見ていられずに彼の白い肌をハンカチで拭った時に驚いた顔をしていたので。  彼の顔をハンカチで拭い終わると、彼は涙を流したのを恥じたのか、チラリと笑みを零した。その笑みは咲き初めた桜のような清冽な印象で……とても綺麗だった。  祐樹の唇も弛む。  パソコンは幸い電源が入っていた。まだ身体は硬直している彼の隣に立って、文書ファイルを新規で開く。 『誰かに聞かれているかもしれません。念のために、普通の会話をしながら、重要な話しはこれでしましょう。出来ますか?』  そう入力する。要するに第三者が聞いているであろう会話は呑気な世間話しと、それと山本センセと木村センセに言及しても当たり障りのないことだけを言って相手を油断させる。聞かれたらマズイことをパソコンで筆談するというやり方だ。手を動かしながら別のことに集中し、他の事を話すという動作はとても難しそうにみえる。が、彼も出来ると信じていた。執刀医ならば、みなこの程度の集中力の振り分けは手術の時に慣れっこのハズなので。 『出来る。でも何故?何かあったのか?』  息が掛かるくらい近くに居る彼の身体は、少しは落ち着いてきたようだ。キーボードの上を白い指と几帳面に切ってあるごく薄い紅色をした爪がしなやかに文字を奏でる。  手術後にシャワーを浴びたせいだろう、彼の身体からはシトラス系の良い香りが仄かに薫る。最愛の彼の唇が触れるほど近くにあるのに、触れられないもどかしさに少し苛立った。 「食事、買って来ましたが、何だかお腹が空いてないようで」 「ああ、私も別に空いていない」  先ほどよりも少しは艶を取り戻した教授が答える。食事中なら食事の音も入れなければならない。それを避けたいための発言だったが、明晰な彼は直ぐに気付いたようだった。 『柏木先生からの忠告です。この病院内では私達は新参者なので、用心の上にも用心をと。百鬼夜行の院内なので、誰にも聞かれたくない話はするな……と』 『なるほど……そうかもしれない。柏木先生の方が院内政治には詳しい。黒木准教授には昨夜のうちに全てを電話で話しておいた。Eメールで開示書類も添付ファイルにして送信してある』  あれほど傷心の風情を見せていた彼の柳のような強靭さに驚いた。祐樹だったら、多分何も手に付かないだろう。驚いたが、彼の度量の大きさが分かってさらに惹かれる。 ――もう少しですから我慢して下さい――と言いたいが、絶対に言えない。 『黒木先生は何と?』 『この問題は、リスクマネンジメント委員会に報告する程度のトラブルだが、それは得策ではない。内々で処分して何も無かったことにするのが良い。幸い、手術室の清瀬師長も同じ意向だし、私としてもその方が良策だと思うのだが』 「今日の手術は……柏木先生『は』いつものようだったと」  表向きの何気ない言葉にフト本音が出てしまっていた。しまったと思ったが後の祭りだ。何しろ、パソコンの文字に気を取られていたので。  その瞬間、彼の少し尖った肩が小刻みに震えた。

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