309 / 403
第十三章 第21話
声を潜めた祐樹の質問に柏木先生は戸惑った顔をした。何故そんな質問をされたか分からないといった風情だ。
「いつもと同じで98点だな……。ちなみに俺は100点を付けたことはない。彼の卓越そた手術にもだ……。まだまだ改善が必要だと思っているのでね。彼の手術の点が90点を下回ったのは今から思えば星川ナースの手術妨害の何回かの手術だな。ちなみに最低点は田中先生が術中裂傷を負った時で、あの時ばかりは70点だったな……それが何か?」
「いつもと同じ……ですか?」
おかしい、そんなハズはないと言いかけたが、教授の手技を祐樹と同じく客観的にずっと見てきた――しかも、外科医としてのキャリアも祐樹よりは長く、手術に対してたゆまぬ向上心や熱意をずっと持ち続けている――彼の眼力は信頼に値する。
「ああ、どうして田中先生がそんなことを聞くのか分からないな」
「いえ、ちょっと思うところが有りまして。ところで医局がいつもと違うというのはどういうことですか?」
手術前に彼に示唆された件を確かめたくなる。
「山本先生の取り巻きが血相を変えていた。何か有ったらしい。ただ、俺も香川派だと目されているので、俺が部屋に入ったら皆出て行ったが……何か知っているか?」
山本センセは助手なので個室を与えられている。山本派はそちらに移動したのだろう。
柏木先生が信頼に値する人だとは分かっていたが、この問題が解決するまでは――ちなみに今祐樹が身に付けているのはやけに胸元の風通しがいい青い手術着の上下と下着だけなので、盗聴器の心配は多分ないだろうが――黙っていた方賢明だろう。
「ええ、少しばかり医局の大掃除……の序盤なので。解決したらお教えします」
何しろ、彼も辞職覚悟で香川教授に自分が知っている「香川教授への妨害工作」を報告してくれたのだから。教授はその件は不問に付すような感触だった。はっきり聞いたわけではなかったが。
彼は思慮深そうな知的な顔をさらに考えに沈みこむような表情に変えた。
「……そうか……詳しくは聞かない方がいいだろう。ただ、教授も、そして田中先生もこの病院では新参者だ。ここが魑魅魍魎の跋扈する場所だということをもう一度考えてから行動してくれ。
年長者からの意見はそれだけだ。健闘を祈る。そういえば、救急救命室からの正式なオファーが来た。もちろん香川教授経由でな。そっちも頑張ってみようかと思っている」
「そうですか……柏木先生ほどの手技の持ち主ならば、北教授も喜びますよ。あちらで勤務なさる時は鈴木さんの容態に気を配って下されば有り難いです」
柏木先生が頷いて去っていく。きっと慌しく食事をして受け持ちの患者さんの診察をするのだろう。
柏木先生にも分からなかったことが祐樹は気付いてしまった。自分の感想が間違っていないか……記憶を詳しく検証する。間違っていたらどんなにいいかと思いながら。
しかし、祐樹の密かな願いも虚しく、やはり気のせいではないという結論しか出なかった。昨夜の別れ際の彼を見て、先入観に惑わされているのか……とも思ったが、記憶を精査して「否」との答えを出す。
彼の手術を見ていることと、救急救命室で臨床経験を積んだことにより祐樹の手術に対する観賞眼が向上したとしか考えられない。
仕事の上でも彼の存在が大きく祐樹に影響を与えてくれたのだなと有り難く思ったが。
ただ、今日の手技の僅かな劣化を彼も自覚している……更なる心痛の種にならなければいいと、思わず深い溜め息が出た。
彼の今朝の沈んだ雰囲気が気に掛かる。祐樹が部屋を追い出したせいでなければいいのだが。ただ、彼には全て伝えたほうが良かったのではないかと、また思考が同じところを辿っている。祐樹も根っからの外科医体質なので余り物事にウダウダと拘る性格ではない。それは自覚しているし、先輩医師からも散々指摘された。「外科医としては適正がある」と。
それなのに、この件はいつまでも祐樹の良心を苛んでしまう。彼と顔を合わせてもとても普段通りに接することが出来ないような確実な予感がした。
どうしてこうなってしまったのか……と苦味のある後悔の念に囚われる。
あんなにも強くて脆い人は祐樹の人生の中で多分もう二度と現れないだろう。それに、こんなにも祐樹を惹き付けて止まない人も。
それなのに……告白もしないウチに嫌われてしまうかもしれないという恐怖に鳥肌が立った。
祐樹のロッカーの中に入っていた白衣に着替える。もちろんその下はワイシャツにネクタイにスラックスだ。スラックスのポケットに何気なく手を突っ込んで、異物感を覚えた。取り出して見ると、祐樹が入れた覚えのないライターだった。何の変哲もない、祐樹がいつも適当にコンビニなどで買うような150円ほどのライター。
ただ、祐樹は煙草とライターを別の場所に仕舞う癖はない。それだけは確かだ。煙草はワイシャツの胸ポケットに入っていて、ライターは煙草のパッケージの中に入っていた。
二つのライターを比べてみる。なるべく音を立てないように。祐樹が買ったのは青い100円だかのライターで、もう片方は黒い色がついている。内容物が見えないほどの黒の100円ライターとはまず珍しいな……と思い、それから長さや重さを比較する。案の定黒い方が1センチは長いし重さも――中に入っているガスの分を考慮に入れても――黒い方が重く感じる。しげしげと眺めていると、僅かに穴がポツポツと開いている。ここから音を拾うのだな……と直感的に思った。
こんな物を持ち歩くわけには行かない。彼に部屋に呼ばれているので昼食を買いに行きがてら、祐樹がこっそりと喫煙場所に決めた秘密の場所で煙草を吸い、置き忘れたフリをしてそのまま放置しようと決めた。他に怪しいものはないかと探してみたが、祐樹には見つけられなかった。
コンビニで彼の分も昼食を買い、教授室に行った。秘書はランチタイムの時間になっていないのか、にこやかに迎え入れてくれる。もちろん黒いライターは処分済みだ。
執務机に座った彼は、やはりどこか蒼褪めた空気を纏っている。――といっても他の人間には気付かれない程度だとは客観的には思うが――祐樹は彼の目をまともに見ることが出来なかった。罪悪感が肩にずしりとのしかかる。彼の机に置いた白くしなやかな指先も、幽かに震えている。それが目に入って余計に居たたまれない。口を開けば謝罪の言葉が出てきそうで、唇を噛み締めた。祐樹にも仕掛けられた盗聴器があるのなら、ここにある可能性は極めて高いのだから。
彼は明らかに無理をしているのが分かる表情で口を開いた。声も幽かにだがいつもよりも硬さを感じる。
「来てくれて、有り難い。黒木准教授ももうじき来ると思うので……経過説明の補助をお願いして良いだろうか?」
ともだちにシェアしよう!