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第十三章 第20話
手術を受ける患者さんやご家族の方には一生涯に一度のことだろうが、細分化した大学病院の手術は――それも、香川教授の評判を聞いて可能ならばこの病院に集まって来ている患者さんを連日適切な手技をし続けていたのならば尚更――ルーティンワーク化する感も否めない。
手術開始の声が厳かに響く。一斉に動き出す手術スタッフ達。麻酔のラインを取る麻酔医が活発に動き出す。
幾分躊躇いを帯びた綺麗な瞳の光が祐樹に当てられた。やはりいつもの彼らしくない。この前までは躊躇の光はなかった。彼を力付けるために、意識的に足に力を入れて力強い視線を送った。それに僅かに頷く彼を見届けた後、言い知れぬ罪悪感がこみ上げて来て……思わず視線を外してしまった。それからは怖くて彼の瞳を直視出来なかった。悲しみの蒼さに光る彼の瞳はどこか脆い光を宿していたので。
そんな彼の雄弁な瞳を見るのは耐えられない。彼の瞳は柔らかで暖色系の光を放っていて欲しい。
想定を大きく超えている彼の雰囲気の差異は、やはり自分が関わっているのだろうな……と思う。他に何かが有ったのかも知れないが。
祐樹としても彼の不安をこれ以上大きくしないために自分の問題に彼を巻き込むことはしたくなかった。
ただ、それだけなのに。
彼の気持ちを無視したような気がしてならない。
仕事にプライベートなことを持ち込まない人だと思っていた。それだけ強い人だと……だが、彼の瞳には不安の影が揺らめいていて。杉田弁護士のアドバイスに従っていれば良かったのかと今更ながらに思う。
が、賽は投げられたのだ。今真実を明かすことなど物理的にも不可能だ。では、この手術の後に言うべきか……と一瞬考えるが、興信所の盗聴器がどんなものかも分かっていないのだ。昨日は教授に付けられていなかったが、それは阿部師長が彼の服――まさか下着までは取り替えていないだろうが――を着替えさせたからで……教授室も意外とセキュリティは低いので、その気になれば忍び込むことも可能だ。最近は盗聴器の性能もアップしていると聞く。
不確定要素が多い中で自分達の関係を匂わすような会話をしたらたちまちウワサになってしまうだろう。
祐樹自身は彼が着任して直ぐにどこかに飛ばされる覚悟で発言をしたせいも有って、大学病院に未練はないハズだった。
が、今となっては彼を残してはどこにも行けないと思う。こんなにも深く心を傾けた人を置いては。大学教授――しかも国際的に名前が通っている心臓外科の専門医――に同性愛疑惑は格好のウワサのネタになる。
無責任なウワサが飛んで彼のキャリアに傷を付ける可能性すら否定出来ない。
独立行政法人となったとはいえ、頭の固い教授陣が病院の重鎮として控えている。事勿れ主義も変わってはいない。そんな中、よりによって同性の部下の一人と不適切な関係を暴露されてしまったら。表立った処分はないだろうが、内部で陰湿な怪文書が飛び交うくらいのことは有るだろう。この世界は嫉妬と名誉欲が渦巻いている。そうなると彼も「同性の部下に対するパワハラ疑惑」などで教授会への呼び出しは必至だ。
彼の華々しい経歴にだけは傷を付けたくない、そう切実に願う。
昨晩見た、彼の経歴と家族構成――彼の華々しいキャリアと寂しい家族のギャップ――彼の孤高が痛々しい。そんな彼が唯一、残念ながら気持ちは完全に開いてくれていないが、彼の殆ど無垢な身体を開いてくれた。日本では多分唯一の人間が祐樹だと思う。
そんな彼を残しては大学病院を去るようなことはしたくないと思った。研修医はどこの病院でも受け入れてくれるし、祐樹は並の研修医の先生よりはスキルは高いと自負しているので就職先には困らないだろう。
ただ、彼と離れることは今の祐樹にとって耐えられない心の痛みを伴うだろうと確信めいて予想出来た。
ならば、この先二日間は盗聴器のことを隠したまま彼に接するという当初の予定通りにするしかない。
彼の奇跡の指先が滑らかで的確な動きを奏でている。その動きは芸術を見ているようだった。が、ふと、違和感に襲われた。手技は完璧なのだが、彼の動作が祐樹には予測出来てしまう。次はこうするだろうな……と思った瞬間、彼の細く長い指がその通りに動くのだ。
以前は星川ナースの動作に合わせて頭で考えてわざとペースを落とした時のような天才的な身体能力と勘の良さを持つ彼――それは天賦の才能と彼自身の研鑽によるものだろうが――の動きが、いくら少しは彼の手技に慣れてきたとはいえ、所詮、凡人の祐樹に見破られてしまうとは……。
彼のアシストを完璧に務めながらこっそりと周囲のスタッフの顔色を窺う。が、祐樹以外は何も感じていないらしい。
では、祐樹だけの感想なのだろうか?と思う。気のせいだと何度も思ったが。やはり今までは彼の速度に付いて行くのが精一杯だった。それが今日は彼の動作を一瞬前に予想出来てしまうことに唖然とした。
柏木先生に手術が終わった後でそれとなく聞いてみようと思った。他のスタッフ――今日の道具出しも責任を感じたのだろう、手術室のナースの責任者清瀬師長だった。彼女との連携もスムーズだし危なげな感じもしない。これまでの彼の手術を見たことがない心臓外科の専門医だったら、間違いなく「神業だ」と評価するだろう。だが、祐樹は彼の過去の手技を殆ど全て見ている。
数字にすれば0コンマ数秒だろうが、彼の手技の冴えが落ちていると感じた。その確信は手術が無事に終了した時に確定に変わった。祐樹の記憶にある彼の手技の方がことごとく素早くエレガントな動きをしていたので。
患者さんをCCUに搬送した後、手術室は弛緩した空気に包まれた。いつもは彼の瞳は祐樹を追ってきていた。が、祐樹が視線を送っても、彼は疚しいことでも有るように視線を逸らした。多分、祐樹が彼の手技がいつもと違うことに気付いたと勘付いたのだろう。
何しろ察しの良い人なので。
「お疲れ様でした」との一斉唱和に送られて彼は執刀医控え室に姿を消す。黒木准教授は学生の講義があるので手術室には居ない。柏木先生も祐樹と同じくらいの回数、彼の手術に立ち会っている。その柏木先生にさり気なく近付き、そっと尋ねた。不安に慄きながら。
「今日の執刀医の評価、先生なら何点をつけますか?」
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