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第十三章 第19話

 極めて素っ気無い文章だったが、彼がまだ祐樹のことを少しでも気に掛けていてくれる――あんな突き放し方をしたのに――ことが分かってとても嬉しかった。  香川教授の手術は面子も決まって来つつある。第一助手は基本的には黒木准教授……と言っても彼の場合は手術の腕前は誠実でソツがないという外科医としては良心的な腕前を持っているが、香川教授ほどの天才的な手技がない点が惜しい。  それに彼の場合、学生への講義を香川教授に代わって受け持っているのでそちらを優先させざるを得ない場合は欠席となる。  その代理をするのが柏木先生だ。彼も実直で真面目な手技には祐樹も教えられることが多い。が、外科手術だけでなく手術にはアクシデントが付きまとうものなので、臨機応変さという点ではやはり香川教授のような柔軟性はない。  祐樹の知っている限り、香川教授の天才的な手技はどんな場合でも肝の据わった手術をしている。どんなアクシデントが起こっても極めて冷静かつ的確にその場で最上の処置をしている……ように見える。唯一の例外は――祐樹の術中の怪我だった――聞いたところでは彼らしくない取り乱しをしたそうで、俄かには信じがたいが複数の証人が居る。公人としては「大変遺憾だ」と思うが、私人としては「自分の……しかも大したことのない怪我で彼が動揺してくれて嬉しい」という矛盾した感慨を抱いてしまう。  そして祐樹自身はというと、第一助手か第二助手に常に選ばれている。彼は――惚れた欲目ではないが――私情では助手には選ばない。単純に祐樹の腕を買ってくれているように思える。  この辺りが実力主義のアメリカ帰りなのだと客観的に分析している。いつも彼に指名されたいと切望してしまう。そのためにはもっと手技を磨かねばならないと彼が今日の患者さんのために作成した「手術指示書」を頭に叩き込みながら思っていた。  彼の手術方法を望む患者さんは重篤な心臓疾患の人が多い。なので、患者さんは全国各地から――可能であれば――搬送されてくる。と言っても、心臓疾患にストレスは厳禁なので、例えば東京から重篤な患者さんが「香川教授の執刀を受けたい」と望んでいても、そして幸い、その入院している病院の主治医が縄張り意識の弱い先生であったとしても――実はそんな医師は少ないのが現状だが――高所恐怖症の患者さんにはヘリコプターは使用出来ない。ヘリに乗っているというストレスに心臓が耐え切れないのだ。なので、大学病院――特に独立行政法人となった旧国公立大学病院からのオファーは少ない。旧国立大学は離れていることが多いのでヘリ搬送しか手段がないので。ヘリに乗ってもバイタルサインが変わらない稀な患者さんが運び込まれてくることは有ったものの。  近畿圏でも、ストレスの少ない救急車搬送――と言っても、消防署所属の救急車は転院の場合は使用出来ない規則なので病院が独自の救急車を使用しての搬送――が一般的だ。  稀に家族が内科医にニトログリセリンとワーフォリンの厳格な処方をして貰い――こういう処方をするのは良心的な内科医に限るが。例えばウチの内科の内田講師のような――ワゴン車を改造して病院に搬送してくるケースも有る。こういう患者さんは優先順位が高いので、香川教授も一日一例という最近のルールの場合でも緊急に二例の手術をすることはある、ごくごくレアケースだが。  ただ、祐樹が見ている限り、家族がワゴン車を改造して後部座席に布団を敷いて内科医特性の点滴を受けながら搬送されて来るケースは良好な結果が得られる。やはり家族が「自分のためにこれだけのことをしてくれた」という感謝の念が患者さんの生きたいという気力を呼び覚ますのだろう。  教授が母の入院しているM市民病院に行きたがっているのは、祐樹に対して――まだはっきりした答えは貰っていないので100%確実かどうかは分からないが、ほとんど間違いはないような気はしているのだが――特別な感情を持っているから…というのが第一の答えだとは思うが、高度医療の過疎化が進む田舎の町に少しでも彼の卓越した手技を提供し、医療活性化に繋がって欲しいという彼の願いが透けて見える。  彼も心臓病で家族を亡くした過去があるのだから。  手洗い場に行っていつもの手順で手を洗っていると、柏木先生が隣に立つ。相変わらず祐樹が感心する速度と丁寧さで手の消毒をしている。 「今日は医局が何だか変な雰囲気だったが……気付いていたか?」  彼は眉を顰めて質問してきた。 「それが……私の方でも色々と有りまして……医局の雰囲気までは気付きませんでした」  柏木先生は怒りを帯びた口調で続けた。 「そういえば、田中先生は心ここに有らずといった感じだったからな……。何だか、山本先生と木村先生の取り巻き達の様子が気になった……。元々、あの2人は反・香川教授だ。星川ナースが香川教授の手術から外されたので、少しは沈静化するかと思っていたのだが……見通しが楽観的過ぎたのかもしれないな…」  独語めいた言葉を残し――多分、親・香川派である祐樹に忠告してくれたのだろう――疾風のように手洗い場から出て行った。  柏木先生は元々派閥だの大学病院のゴタゴタからは距離を置いていたが、今回の件でますますその傾向に拍車が掛かったようだ。  反・香川派がどんなに怒っても、手術には影響はない。手術スタッフは皆、香川教授の手技に心酔している。妨害があるとすれば卑劣な手段を使うしかないのが実状だ。その卑劣な手段の一つが、現在、親・香川派の筆頭である祐樹に対する興信所の調査なのだろうか?  手術控え室では、スタッフが各々の職務に忠実に励んでいた。祐樹もそれに倣う。ちなみに祐樹は第二助手を務めることになっている。怪我は完治したと言っても過言でないので。手術を控えた緊張感が部屋の空気を張り詰めたものにしていた。  定時に香川教授が手術控え室に入って来た。彼を凝視していることを気付かれないようにこっそり観察する。一見いつもの彼と変わりはないように見えたのだが。どこか纏っている空気が違う。祐樹が事情も詳しい事情も告げずに一方的に部屋から追い出した件で彼なりのショックを受けたのかと思って見ていたが、彼もそんなプライベートな件を自分の仕事に反映させるタイプではないことは分かっているつもりだ。  だが、彼の祐樹に対する細やかな心遣いと祐樹の――決して悪気が有ってしたことではないが――行動を思い返すと申し訳なさ過ぎて、彼とは目を合わせてもツイ逸らせてしまう自分が嫌だった。  が、ちらりと見た彼の様子はいつもの真摯で誠実な表情は浮かべていたものの、全体的な雰囲気は何だか蒼褪めているような感じがした。  何か有ったのだろうか?

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