332 / 403

第十四章 第20話

『いえ、この事態は海外から招聘されて医局の中を把握出来ない時期に起っています。教授を補佐しきれなかった私にこそ責任が有ります。ですので、教授がお辞めになる必要はありません。引責辞任ならば、私が』  黒木准教授が切実な口調で慌てたように言うのを、どこか遠いものに聞きながら祐樹は彼の携帯電話を強く耳に押し付けた。  最愛の彼が東京に行ってしまう……遅まきながら告白を決意した矢先に。  研修医は大学病居に限らずどこの病院でも勤務出来るが、彼がオファーを受けた病院に採用されるとは限らない。しかも中途半端な時期なだけに祐樹にとっては絶望的な転職希望だ。彼を追って東京に行くことは出来るが同じ病院で勤務することは多分無理だろう。  全身の血が凍るような気がしてただただ携帯電話を耳に押し付ける。 『香川教授が本学にいらしてから未だ二ヶ月も経っていない。医局員の指導もままならないのは至極当然のように思えるがね。  それよりもこんな妨害が有ったにも関わらず術死が起っていないことは香川教授の手技が卓越していることの証拠だろう。辞めるには及ばない。教授は本病院の宝なのだから。香川教授が本病院にいらしてから入院患者さんの爆発的な増加がそれを証明している。  また、黒木准教授は今までのわだかまりを全て水に流して教授を良く補佐しているという話は聞いて居る。医局員の密やかな陰謀に気付かなかった点は、多少の責任はあるかと思われるが、陰謀の種類が陰湿で卑劣極まりない種類のものだということを勘案すると准教授の指導力不足とは一概には決め付けることは出来ないだろう。  ところでこの件に関わった人間は、山本助手と木村講師そして星川君の三人かね?』  齋藤医学部長がカチリとライターの音をさせて香川教授と黒木准教授の慰留を試みている気配が携帯電話越しに聴こえてくる。  と、そこで通話が切られた。多分、祐樹が山本センセとの会話を録音したものを香川教授が再生しているのだろう。  全身で安堵の溜め息をつき、脱力して椅子に凭れ掛かった。掌にはじっとりと汗が浮かんでいる。そして背中にも冷や汗が滴っているのが分かる。掌の発汗は精神的な要因なのは職業上の常識だ。それほどのショックを受けていたのだな…と思う。彼が祐樹の側から離れると聞いてこんなにも動揺してしまうのは――漠然とは予想はしていたが、実際彼の口から聞くのとはまた違った衝撃だった――。  が、その危機は斉藤医学部長によって辛うじて回避されつつあるので、斉藤医学部長は病院経営の観点から慰留しているに過ぎないことは分かってはいるものの、医学部長の裁断に教授が従ってくれることを心の底から願っていた。いつもなら、こういう時は精神安定剤代わりの煙草を吸う祐樹だったが、今回だけは煙草を吸うことさえも忘れていた。 『山本君が首謀者かね…君には失望させられたよ。君の父上とは懇意だが、今回の件では医学部長として正式に厳重な抗議をすることにする。木村君も……。2人の進退については私に任せて貰えないだろうか?他にも協力者が居るようだが、術死が有ってからでは遅い。今すぐにでもその者の名前を明かし給え』  いつもはどちらかといえば紳士的な話し方をする齋藤医学部長だったが――といっても祐樹には雲の上の人なのでそんなに接する機会などなかったが――怒りを押し殺したような声で山本センセと木村センセを詰問している。  山本センセはこういう時に反論をするタイプのように思えたが、斉藤医学部長の怒りを恐れたのか彼の声は聞こえて来ない。木村先生は自分の罪を反省していた人だから弁解するような姑息なマネはしないだろう。二人の罪は祐樹と彼が杉田弁護士を通じて手に入れた銀行の開示書類でも明らかなのだから。 『この録音に有るように、畑中医局長も一枚噛んでいるのかね?答え給え』  大声で怒鳴る斉藤医学部長は本気で怒っているようだった。が、祐樹にはその怒りは香川教授を陥れようとした件よりも、故意による術死が起ってしまった場合に病院が被る社会的・経済的打撃を慮ってのことだろうな……と勘繰ってしまった。万が一そんなことが表沙汰になったらこの病院の評判は地に堕ちる。医師の不祥事が相次いでいる世の中だ。斉藤医学部長は己の保身と病院のために動いているのだろう。香川教授があれ程の憔悴ぶりを――幸せというと語弊があるが――祐樹の前でしか見せなかった。そんな水際で留めようと必死の努力をしていたことは、齋藤医学部長も多くのライバル達を蹴落とした過去があるだけに、どうでも良いことなのかも知れない。ただ、斉藤医学部長も悪辣な手を使ってライバルを蹴落とした過去があったとしても、患者さんには迷惑を掛けていないハズだ……と信じたい。 『…はい。実は畑中医局長も…』  オドオドと蚊の鳴くような声で山本センセは言った。まさかこれほどまでに齋藤医学部長が激怒するとは思っていなかったのだろう。策略家を気取ってみせてはいたが、所詮は底が浅いか、気が弱いかのどちらかなのだろう。あるいは両方かも知れないが。 『医局長までもが私に対して反旗を翻す事態は、やはり私が教授に相応しくなかったということです。仮にも医局の長として慙愧の念に耐えません。やはり、私が教授になったのが間違いだったのです』  彼のいつもよりも低い声が電波に乗って届いてきた。 ――そんなことは全くないです。確かに医局内では反乱分子が居たかもしれないですが、それは香川教授のせいではなく、黒木准教授を祭り上げようとしただけのことで、黒木准教授以外のどんな医師が教授になっても同じことがなされたに違いありません。だから自分を責めないで下さい――  祐樹にテレパシーがあるならそう伝えたかった。 『そうではない。佐々木前教授は黒木准教授が教授になるのは少し早いというご判断だったのだよ。香川教授を招聘したのは表向きこそ私だが、実際の推薦者は佐々木前教授だ。つまり、君達のしたことは全くの徒労だったわけだ。しかも本学や病院の信用を失墜させる可能性があるという思慮分別を欠く極めて悪質なものだと断じざるを得ない。  幸い香川教授の天才的な手技のお陰で術死患者さんは出ていない。これは香川教授と極めて優秀な手術スタッフの功績でもある。香川教授や黒木准教授は誠実に職務を果たしたわけだ。よって、病院長兼医学部長判断でこの二名はますます職務に励んで貰いたい。  しかし、畑仲医局長を含む三人は表沙汰にはしないが辞表を提出して貰う。もし異存が有れば正式に処分することになる。そして星川君については上川総師長相談の上然るべき処分を』  斉藤医学部長の威厳のある毅然とした声が携帯越しに聞こえてくる。  祐樹は椅子から立ち上がりかけたが、今までの緊張からか膝が震えている自分を自覚した。   全ての力が抜けて、黒木准教授の椅子に座り込むのがやっとだった。

ともだちにシェアしよう!