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第十四章 第21話
『医局を掌握出来ず、本学出身とはいえ、アメリカから帰国された香川教授の補佐を完璧に出来ない罪は私に有ります。私にも処分をお願い致します』
黒木准教授の憔悴した声が聞こえる。彼も文書提出の時までは、作成するという一点に集中力を注いでいたらしい。その後、ジワジワと自責の念が湧いてきたのだろう。
『こんなに医師として以前に人間としてのモラルに反する行為を黒木准教授のような方が見破れなかったことは至極当然のように思える。仮に黒木准教授を処分するなら、類は香川教授に及ぶが……それでもいいかね?』
流石は医学部長という地位に権謀術数を駆使して上り詰めた斉藤医学部長だ。黒木准教授を思い留まらせるために香川教授をダシにして――というと言葉は悪いが――いるのだろう。
そうすると齋藤医学部長は香川教授を本気で慰留する決心なのは間違いがないなと、理性が一割程度残っている頭で考えた。九割は……色々なことが有りすぎて――特に彼が東京に行ってしまうかもしれないという発言――祐樹にしては生まれて初めてではないかと思うのだが…思考が形にならず頭の中は混沌とした想念が渦巻いている。
『分かりました。これからはよりいっそう、奮励努力して香川教授の補佐を務めます。香川教授これからも宜しくお願い致します。力不足は承知致しておりますが、精一杯医局の取りまとめをさせて頂く所存です。ですから教授もこの病院を去るというお考えはお捨て下さい』
数分間の沈黙。祐樹にとっては永遠にも感じられる長い沈黙があった。
どうか、黒木准教授の言葉に「イエス」と言って欲しい。携帯電話を握る手に力がこもる。と同時に頭は神に祈るように項垂れていくのを感じていた。
『…分かりました。本学で必要とされていることは齋藤医学部長の御言葉を伺って了解いたしましたので、この件は黒木准教授にお任せするという条件で辞意は勝手ながら撤回させて頂きます』
あくまでも落ち着いていて、凛とした声で彼は言った。
祐樹は嬉しさの余り、身体中に鳥肌が立つのを自覚する。これで、彼と離れ離れの職場に居なくて済むようになったのだから。
『山本君と木村君には二日以内に私宛の一身上の都合を明記した辞表を提出することを命じる。もし二日以内に提出が為されなかったら、解雇処分にした上で私と親しい病院関係者に事の次第を内密に流すことにする。そうなれば……後は言わなくても分かるだろう?』
要するに解雇処分にした上で、斉藤病院長兼医学部長と親しい病院には就職出来ないということだろうとな……と思う。返事は無かったが、電波越しに伝わってくる雰囲気で2人が頷いたことは分かった。
『浜本君、至急上川総師長と手術室の清瀬師長を呼んでくれ給え』
『かしこまりました』
浜本という女性は多分、齋藤医学部長の秘書なのだろう、話の流れからすると。
『星川君の件です……ね。彼女の処分はどうなりますか?』
好奇心からではなく心から憂うような声で黒木准教授が質問をしている。医師とは別系統に属するナースは、教授といえども処分は出来ない。出来るのは病院長と、約三千人のナースを統括する総師長のみだ。
『彼女は実行犯だ。罪は山本君と同じ程度だと考える。よって然るべき譴責の後に辞表を提出して貰うことになる』
『そうですか。止むを得ない処分だと愚考致しますが、彼女の今後の身の振り方につきましては、我が医局員が関与してのことですので、私がアドバイスしても構わないでしょうか?』
『黒木准教授は流石に責任感が強いな。構わない、好きにし給え。そろそろ次のアポイントメントの時間だ。ではここまで』
教授と黒木准教授が辞去の挨拶をしている。そこで通話は切られた。多分彼もこれ以上祐樹に聞かせることはないと判断したのだろう。
頭の中がまだ混乱している。医学部長室での会話を聞いて、気持ちが乱高下を繰り返したせいだ。立ち上がる元気もなかったので、しばらくはここで頭を冷やしておこうと思った。
やっと煙草を吸うことを思いつき火を点ける。多分黒木准教授はこの部屋に帰ってくるだろうが、友永先生から聞いた限り他人の煙草の煙も気にしないだろう。気分を落ち着かせようと試みる。もしかすると教授もこの部屋に来る可能性もある。
が、気持ちの切り替えが早いので外科医には向いていると先輩の外科医全てに褒められた祐樹ですら、頭の中はぐちゃぐちゃだ。彼にどのように接して良いのかも分からない。即断即決の祐樹にしては、逢いたいような逢いたくないような優柔不断さだった。
そういう自分が情けないが、今逢ったら、彼の幾分細身の身体を掴んで「どういう気持ちで辞職を申し出られたのですか?しかも東京に行くだなんて…手私を置いていくお積りでしたか?」と、しなやかな肢体を強く揺さぶって問いかけてしまいかねない。
未だ告白もしていない人にそんなことを言う権利は祐樹にはないのが分かっていながら。理性ではなく感情をぶつけてしまいそうだった。これでは順序が逆になる。告白をして仮にイエスの返事を貰った上でなら、そういった質問も許されるだろうが今の今ではそれは出来ない。
歯痒さと後悔の念も加わる。
扉の前で数人の気配を感じる。黒木准教授だけなら良いが他の人間も居るらしい。教授室も――祐樹は切っ掛けが切っ掛けだったので香川教授の執務室には良く出入りしているが――准教授室も一介の研修医が入ってはならない不文律だ。慌てて出ようとする。教授室なら隣室は秘書の部屋なのでそちらから出ることは出来るのだが。准教授に秘書は付かないので当然隣室などない。扉は一つだけなのでその扉の前に立たれると出て行くことは不可能だ。進退窮まっていると、扉が開き、黒木准教授と木村センセ、そして山本センセが入って来た。黒木准教授も祐樹が部屋にいることをすっかり忘れていたようだ。教授の辞意表明に祐樹も我を忘れたが、黒木准教授も動揺の余り祐樹を部屋に置いてきたことが頭から飛んでしまったのだろう、一瞬驚いた顔をした後に「ああ、そうだった」という表情を浮かべる。
祐樹は慌てて携帯を胸ポケットに滑り込ませた。その後、深く頭を下げて挨拶し、黒木准教授の執務机から立ち退いた。
黒木准教授は祐樹の座っていた椅子に座る。木村先生は従容として黒木准教授の前に立っている。が、山本センセは祐樹を認めるとこれ以上の憤怒の表情はないと思われる赤い顔をして祐樹を部屋の片隅に招いた。
「御蔭様で、退職が決まった。生涯でこんな屈辱的なことは初めてだ。俺は恨みを三倍にして返す人間だ。絶対、お前の弱みを暴きだしてやる」
祐樹にすれば自業自得だと思うのだが、山本センセは辞職も祐樹のせいにしたいらしい。
「弱み……ですか?そんなもの有りませんよ。どうぞ御自由に。辞職ですか?ご愁傷様ですが、それは解雇ではなく辞表提出ということですよね。寛大な処置になりましたね。やはり斉藤医学部長に協力してきた方は違いますね。でもご実家で勤務出来るのですから職には困らないのでは?」
ここぞとばかりに反撃に出るが切れ味に乏しいのは自覚していた。山本センセが狙っていたのはY記念病院の院長の座だろう。それが、齋藤医学部長の――多分伝えられるだろう――内々の連絡が行き、もし実家で働けたとしても一介の勤務医扱いでしかないだろう。これは山本センセにとっては屈辱のハズで。山本センセの辞職を今聞いたという顔をするのが精一杯だった。やはり、先ほどの病院長室での香川教授の辞職表明の衝撃でいつものように頭が働かない。この際とばかりに言っておきたいことは山ほどあるのに。
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