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第十四章 第23話
彼のしなやかな指が幽かに震えている。指の不随意運動は神経が不安定になっていることの証だ。盗聴器を意識した、しかし彼を力付ける良い言い回しの言葉はないだろうかと考えるが。
しかし、祐樹自身の脳も煮えたぎった坩堝の中のような色々な想念が渦巻いていて……言葉を話すという簡単なことすら出来ない。
彼も薄い――そして細い鉛筆で腕の良い画家が丹精込めて描いたような――唇が色を失い言葉を発しようとしているのだが、言葉にはならない。
祐樹も同じ状況だった。
脳内には彼に伝えたい言葉は滝つぼの水流のように豊富に尽きることなく詰っているのに、それが言葉にならない。いや、出来ない。祐樹の脳のシナプスの電流――これが想念を作るのだが――を彼に完全にコピーして全てを伝えることが出来ればどんなにいいかと、医師としてはあるまじき駄々っ子めいた思念が過ぎる。
2人の距離は3メートルくらいだった。そのたったそれだけの距離を隔てているだけなのに、気持ち的には日本とアメリカくらいの隔たりがあるかに思えた。
彼の少し蒼褪めた、憔悴の色が滲む表情は今にもどこかに消えて行きそうな錯覚を覚える。そんな彼をただ凝視するしか出来なかった。
祐樹は今まで、遊びで付き合った恋人にも……そして最愛の教授に対しても言いたいことやしたいことを難なく伝えられたのに。
彼の東京行きのオファーが有ると聞いた時から、彼に対しては失語症になった感じがする。
胸や脳には言葉が溢れているのに、どうしても発音出来ない苦しみを初めて味わう。
祐樹が何も言わないことを彼はどう思っているのか、彼の細い肩が小刻みに震えている。
駆け寄って、抱き締めて耳元で熱い囁きを送ればいい……理性では分かっているのだが、足の機能が麻痺している。そんな情けない自分を叱咤するが身体は正直だ。扉の前で立ちすくんでいる。
彼の顔も蒼みを増し、白く長い指の震えはいっそう酷くなっている。
「これ、お返しします」
唾液の分泌量も落ちているのだろう。掠れた低い、そして情けない口調しか出ない。携帯電話を渡すという大義名分が祐樹の足の呪縛を解いた。
「あ?ああ……私も返さなくてはならない……な」
彼はスラックスのポケットから――多分それが一番こっそり操作しやすかったのだろう――祐樹の携帯を震える手で取り出す。
我ながら呆れるほどギクシャクした足取りと、強張った顔で最愛の彼に近付く。
祐樹の表情を恐る恐るといった表情でチラチラと見ていた彼の顔も今までに見たことが無いくらい怯えとも焦燥ともつかない表情を浮かべている。
「これからも…オーベン(指導医)として出来ればずっとご鞭撻下さい。それが、私の望みです」
「オーベン」という単語も「ご鞭撻」という言葉も本当は違った言葉で言うハズだった。
『これからも、出来れば一緒に過ごして下さい。それが私の最上の望みです』
本当はそう言いたかったが、唇がどうしてもその言葉を発音しない、いや凍り付いたように発音出来なかった。
彼の端整な顔がますます色を失う。それを痛ましげに見てとったが、祐樹はそれ以上言葉を紡げない。その苦しさが顔に出たのだろうか。祐樹の携帯が振動している。もちろん着信が有ったわけではない。持っている彼の指が震えているせいだった。祐樹の携帯はバイブモードで着信が有った時と同じ程動いている。
彼の澄んだ瞳も蒼く悲しげな色を浮かべていて…携帯を受け取る時に彼の指ごと携帯を包み込んだ。少しでも彼の冷たい指先に熱と――そして、指先から想いとが――伝わって欲しいと切望しながら彼の指を温めた。祐樹が手を握っていると、彼の震えは若干治まる。
ただ、言葉に出来ないことを代弁するつもりか瞳光は悲しげに沈んだままで生気がない。
言葉に出来ないのならいっそ抱き締めて心情を伝えようか……と思った。が、教授室のブラインドは上がっていて、夕闇に閉ざされた外の景色が見えた。この部屋は明かりが点いている。外が暗闇だと逆に室内で何をしているのかが見えてしまう。山本センセが万一興信所の社員に教授室の監視を付けていたら、その社員にも見られてしまう。
あんなに派手な宣戦布告が有ったばかりだ。用心して振舞わなければマズい。不自然に手を重ねているだけであっても写真に撮られ、それが院内LANを使ったメールに画像添付されて病院関係者に送信されたら揣摩臆測を呼ぶだろう。それが、夜の教授室での抱擁写真ともなるとどんな言い訳も出来ない。
祐樹は彼の指を一瞬強く握り締めてから、彼を驚かせないようにそっと指を離す。祐樹の携帯は祐樹が持ったまま。彼の冷たいとはいえ手の温度が残っている携帯電話を代わりに優しく握り締めた。自己満足に過ぎないことは重々承知の上で。
もっと一緒に居たかったが、祐樹も何を口走るか分からない。殊に彼のこんなに透明な哀しさが彼の肢体から立ち上る今となっては。
奥歯を噛み締めて、素っ気無く彼の携帯を返した。内心は断腸の想いだったが。
その動作にも彼の瞳が揺れる。彼の表情や行動をこれ以上見ていると、刹那の衝動に身を任せたくなるのを危惧した。
「すみません。一件、至急連絡したいことがありましたので勝手に使わせて戴きました。もしご不快なら通話料はお支払い致しますので」
殊更切り口上で謝罪をした。彼の細い肩が大きく揺れた。何故だかは分からないが。
「至急に……連絡?」
彼の長い睫毛に縁取られた目が大きく見開らかれた。とても怯えた表情が彼には相応しくない。
「ええ。教授もご存知の方ですよ。後ほど通話履歴で確認してみて下さい」
彼の唇から安堵の色を纏った溜息が一つ零れた。
「そう……か。勝手を言って借りていたのは私だから通話は構わないが……」
「有り難うございます。では私は今日はこの辺でお先に失礼します。勝手を申しますが…少々疲労しておりますので」
定型通りの言葉を無理に喋らないと、溢れ出る感情の吐露をしてしまいそうだった。
それを抑えるために力を込めて発音した。その言葉にも、彼の幅はあるのに細い肩が揺れた。
もうこれ以上一緒に居ては自分の理性に自信が持てなくなる。
「では、お疲れ様でした。明日の手術の助手はつつがなく務めさせて頂きます」
「…………ご苦労様。明日も宜しく頼む」
彼の悄然とした言葉を背中で聞く。振り返りたくなる衝動を必死で抑えた。早足で部屋を突っ切りドアを開けて外に出る。せめて丁寧にドアを閉めようと振り返った。
その時の彼は何かを堪えるように上を向いて目を瞑っていた。その姿は孤高の悲しみとでも名付けたい切なさと哀愁を宿し、祐樹の心を鋭く突き刺した。
「お休みなさい。ゆっくり休んで下さい」
口の中だけで呟くとゆっくりとドアを閉めた。決意が鈍ってしまいそうになるので足早に教授室から遠ざかる。
今夜も眠れそうになかった。
寝不足には慣れているので、翌朝は定時に普段と同じ顔を無理に作って出勤した。医局は山本センセと木村センセの姿は見えない。といっても彼らには個室が与えられているので医局員は特に不審には思っていないようだが。
第一助手に指名されている手術指示書を読んだ。手術控え室に一番早く行く。誰とも雑談をしたくなかったので。
手術前に彼は姿を現した。彼も眠っていないのか目が赤いし、表情も幾分硬い。といってもよくよく観察しなければ分からない程度だったが。
いくら興信所の危険があるとはいえ、そして祐樹が生涯初めての動揺が有ったとはいえ最愛の彼に対しての昨夜の仕打ちを思い出すと、罪悪感で瞳を合わせることが出来ない。
手術開始の時、彼の澄んだ眼差しがこちらを射ているのに気付く、これはいつもと同じで。一瞬だけ瞳を合わせ幽かに微笑みを載せる。彼は小さく頷くと手術開始を宣言した。
実は昨日、杉田弁護士事務所に寄ってことの次第を全て打ち明けていた。祐樹が必死に懇願したせいもあったが、興信所への圧力が一日早まりそうなのだ。手術が終わってから杉田弁護士に電話を掛けて進展が有ったかを聞くことにしている。
もし、進展が有ったら……彼への秘密のサイン――Rホテルの乳液の香り――を出す積りだった。そして、もう一つ、山本センセに対する切り札に出来そうなことも杉田弁護士から教えて貰っていた。全ては手術が終わってからだ。
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