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第十四章 第24話
手術はつつがなく進行している。祐樹も、そして多分執刀医の彼も寝不足で集中力は普段よりも劣っていると思われるが、そんなことは言い訳にはならない。
特に祐樹は救急救命室での徹夜の激務で疲れているわけではなく完全なプライベートの悩みで昨日は眠れなかっただけだ。私的なことで職務を疎かに出来ないのはプロとしては当たりだ。
集中力の欠く手術がどれ程危険かも良く知っている。祐樹は必死に集中しようとした。かなり努力が必要だったが……ただ、患者さんの尊い命を預かっている以上は集中して祐樹に与えられた第一助手の仕事を完璧にこなすことだけを考えていた。
幸い祐樹は救急救命室で徹夜勤務の後に香川外科の手術をこなすことに慣れてしまっている。二晩の徹夜くらいでは体力的には問題はない。ただ、精神的に問題があるだけだ。
最愛の彼に対する想念を手術の時だけシャットアウトすれば大丈夫なハズだ。
彼も昨夜の教授室での傷心の発露――見ている祐樹が痛々しくなったほどの衝撃を受けたにも関わらずーー彼の手術用の手袋に包まれた指は普段通り、いやもっと精度が増している。
彼もまた、患者さんのことを考えて「昨日の動揺はなかったのでは?」と思わせるほどの見事な手技の連続だった。いつもと違うところは、手術中に彼は殆ど汗をかかないが、額に汗の粒を頻繁に宿すくらいのことだ。手術室の新米ナースが執刀医の汗拭きに回ることが多い。香川教授の手術はこの病院の看板なので、人材使いまわしの手術が多いのがこの病院でのローカルルールの例外として人材はほぼ固定されている。額拭きのナースもずっと彼女が担当しているのは知っていた。今までは彼女の出番が殆どなかったのに、今日は頻繁に汗を拭っている。当然彼女も不審そうだった。
手術が無事に終わり、CCU――心臓外科の集中治療室に患者さんが搬送されると手術室の空気は弛緩する。
祐樹は彼の視線を感じていたが、今彼と目を合わせると昨夜の教授室での彼の哀しげな姿を思い出してしまい居たたまれなくなってしまうことは自覚していた。だから敢えて彼と視線を交差させず、第二助手の柏木先生と話していた。
彼は祐樹にだけ聞こえる小声で囁く。
「医局の様子がどことなくおかしい。何か有ったのだろう?」
「ええ、有りました。近日中に先生にもお分かり戴けると思います。少しゴタゴタしているので……本当は直ぐにお話しすべきなのでしょうが……話していい時が来たら先生にはいの一番にお知らせします」
「……そうか。では詳しいことは聞かないが、いい変化だろうか?それとも?教授の様子も今日は変だったし、田中先生も……だから心配している」
「良い変化です。今はそれだけしか。誠に済みません」
柏木先生は安心した表情を目に浮かべた。何しろここは手術室だ。手術用のマスクやゴーグルで覆われている顔は殆ど見えない。多分マスクの下では柏木先生は微笑んでいるのだろうな……と思った。柏木先生との会話が終って、そっと手術室を見回すと愛しい彼の姿は無かった。
昼休みに杉田弁護士に祐樹の秘密の喫煙場所から携帯電話の発信をする。杉田弁護士の答えは祐樹を心の底から安堵させるものだった。詳しい経緯を聞いていると、携帯電話のバッテリーの残量が少なくなって行く。それほど長い電話でも無かったのにと訝しく思っていたが昨夜は携帯電話の充電をしていないことに気付く。
昨日は祐樹としては精神的にいっぱいいっぱいの一日だったので迂闊にも充電を忘れていた。そんなに携帯電話を使うタイプでもなかったので予備の充電器を職場には置いていない。が、そんなに気にすることでもないだろうと思った。祐樹の携帯にそうそう掛けてくる人間は居ないので。
午後は通常業務をこなす。鈴木さんの容態変化を――彼は救急救命室でのボランティアをストレスとは感じていないらしくすこぶる良好だった――本来ならばオーベンである教授に直接知らせなければならないが。教授室には隣室に彼の秘書がいる。昨日からの祐樹は彼に関しては平常心を保てる自信が無い。院内LANを使ってメールで報告するだけに留めた。
今日は救急救命室のシフトには入っていないのでもうそろそろ終業時間だ。きっと彼もそうだろうと思って私物入れのロッカーから乳液を取り出す。首筋と手首に塗ると、祐樹はこれからの期待と、そしてこれまでの逢瀬の記憶が遣る瀬無く蘇った。
今日こそ、全て話してそして許しを請い正式に「恋人として付き合って下さい」と懇願するつもりだった。彼が受け入れてくれるかどうかは分からないが。今頃は彼も教授室ではなく術後の患者さんを診療しているだろうと心当たりの場所に行く。
彼の白衣に包まれた細い体が見える。それだけで胸が詰ったようになって言葉は出て来ない。さり気なく彼の側に行く。長岡先生と共に歩いていた彼は様々な感情が宿っている瞳の光で祐樹を見たが、彼も祐樹同様何も言えないようだった。まぁ、場所が場所なだけに言うのを憚ったという可能性も有るが。
祐樹の身体からは乳液の香りが漂っている。気付いて貰えなかったらという危惧から何時もよりも余分に皮膚に落としたのだから当たり前だ。
風の向きも計算して彼の側を通る。祐樹は相変わらず目は伏せたままだったが、彼の気配は全神経を集中して窺っていた。彼が祐樹の香りを捉えた瞬間、視線を祐樹に当てた。祐樹も最愛の彼を見て、少しだけ唇を上げた。彼の瞳の光が春の穏やかな日の光に変わった。彼は了解した……という感じで幽かに頷く。多分誰も気付かないくらいの動作だった。
定時で上がり、彼とのRホテルの逢瀬に思いを馳せつつスタッフ用の入り口をくぐろうとした時だった。救急救命室の新米ナースが2人、思い詰めた表情で立っていることに気付く。「まさか……」と思って隠れようとした時にはもう遅かった。彼女達は祐樹に気付きナースらしい早足で近付いてくる。
「阿部師長が、どうしても田中先生をお連れするようにと仰いました。こちらは大変なんです。先生が3人も過労でステってしまわれまして……。それなのに師長は心筋梗塞の患者さんを受けてしまわれて……どうしても田中先生のお力が必要なんです。お願いします」
泣き出しそうな彼女達の懇願だったが。今の祐樹は患者さんには悪いが優先順位が高い彼との秘密の約束がある。
「柏木先生にお願いしては……?私はちょっと……」
「柏木先生もいらしてます。でも手が足りなくて…。阿部師長は『田中先生には沢山貸しがあるし、最悪の場合はあたしが知っていることをみんな噂にして流すわよ』と田中先生に申し上げればきっと来て下さると申していました」
サイアクだ。目の前が真っ暗になる。よもや阿部師長は噂にはしないだろうが。ただ、救急救命室に命を掛けている彼女のことだ。祐樹がここで断ると逆上の余り何を仕出かすか分からない。それに彼女には確かに借りが数え切れないほど存在する。
屠所に引かれる馬にでもなった気分で救急救命室に駆け込んだ。確かにいつもよりは医師の数は少ないのに患者さんの数は多い。しかも皆が重篤患者だということは一目見て分かった。
「田中先生、ゴメン。でも本当に緊急事態なの。今までの貸しは全部チャラにするから」
彼女も開胸心臓マッサージを施しながら叫んでいる。通常の彼女は指揮官に徹しているので、彼女まで参加しないといけない程の緊急事態なのだろう。だが、祐樹はもっと大切な約束がある。
「私も都合がありまして。私の出番が済んだら直ぐに帰宅しないと……、一生の問題なのです」
我ながら悲痛な声を上げた。
「分かった。ベッド2とベッド4の患者さんの処置を完了させれば、それだけでいいから」
祐樹の切迫した声に阿部師長は少し怪訝な声で譲歩してくれた。祐樹の顔を見たのは一瞬で、阿部師長はあちこちに指示を飛ばしながら心臓マッサージを続けている。
「ベッド2と4の状況説明をお願いします」
白衣に袖を通しながらナースに言う。一刻も早く完璧に処置を終えてこの戦場から離脱するしかない。そう腹を括った。香川外科に所属する人間としても患者さんの処置を可及的速やかにかつ、誰にも文句を言わせないハイレベルな処置をしよう。
最愛の彼が待っているのだから。
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