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第十五章 第2話
彼は医局の灯りではっきり見える祐樹の白衣を見て、全てのことを了解したと思われる。
唇はまだ震えていたが、頬は仄かに紅色になってきている。眼差しが春色の光を帯びていた。
「Rホテルでいくら待っても来ないから……多分何かが起こったのだと思った。携帯電話も通じないし……祐樹が事故にでも巻き込まれたのかと居ても立ってもいられなかった。病院のトラブルも有ったことだし……職場に居るのなら、何か分かると思って引き返して来た」
不安定な声の乱高下、そして掠れて震える声で告げられる。
「すみません。帰りがけに阿部師長に掴まってしまい……気管縫合の人手がどうしても足りないと……」
唐突な最愛の彼の出現で半分麻痺した頭で言ってしまい、処置の名前を間違えていることに気付く。普段の祐樹ならこんなミスは絶対にしない。だが、彼は遅刻の理由を聞いているだけで、いくら几帳面な彼でも患者さんの処置の違いはスルーするだろう。
「……そうか……それならいい。祐樹が……もう来てくれないかと……そう思うと……、居ても立ってもいられなかった……」
彼の雄弁な瞳が切なげに揺れる。彼もここがどこかを忘れ去っているようだった。医局なので何かしら医師の出入りがあるのだが。不安定な心の揺れを表しているのだろうか、彼の口調は震えているし、声も大きくなったり小さくなったりした。
きっとホテルで待っていてくれた時から「来てくれない」と心配していたのが分かる。何故「来てくれない」と分かったら、大阪からここまで引き返してきたのかは分からなかったが。祐樹が山本センセに報復されたとでも思ったのだろうか?
彼は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「そんな顔しないで下さい。ちゃんと約束は守りますから」
彼の顔に手を添える。特に泣き出しそうな目の上を。
「約束?」
彼が小さい声で呟いた。やはりあの時の祐樹の言葉、「ずっと指導医で居て下さい」というのを言葉通りに受け取ったらしい。つられて祐樹も小声で囁く。
「『ずっと指導医で居て下さい』と申し上げたでしょう?でもあれは裏の意味があるんです。『ずっと側にいて私の側に』と言いたかったんです。
今までの無礼な仕打ちをもし許して戴けるなら……許されないとお思いなら平手打ちをしてこのまま医局から出て行って下さい。でもこの言葉を聞いてから平手打ちをお願いします。
貴方を……愛しています、心から。誰にも渡したくない。これが私の本音です」
平手打ちが来るかと――来ても甘んじて受けようと彼の瞳を凝視する。彼は信じられないとばかりに目を大きく開いていたが、つと、祐樹の視線を外すと何かを耐えるように目を固く瞑り、上を向いた。
もっと気の効いた愛の言葉を送りたかったのだが。今の祐樹にはこんな陳腐な言葉が精一杯だった。
上を向いた彼の長い睫毛の下から涙が一粒流れ出た。
祐樹は誰も来ないように祈りながら白衣を脱ぎ捨てた。彼のスーツに血が付かないように。そしてゆっくりと彼を抱き締めた。彼が拒絶の仕草を見せるようなら直ぐに止めるつもりだった。が、彼はここがどこかも分かっていない様子で祐樹の胸元に包まれている。
その顔は、満足げな表情を宿していて、祐樹はその唇に自分の唇を重ねたいという熱望に勝てなかった。理性はやめろと盛んに警告していたが。
唇を重ねた。重ねた瞬間に彼の唇の冷たさに驚く。キスは何度もしてきたので、彼の唇の温度は祐樹の唇にインプットされている。
温めるように唇全体を重ね合わせた。祐樹の唇はその冷たさが心地よい。角度を変えて彼の唇を啄ばむようにした。その方が血行も良くなるかも知れないと。
彼の細い腕が祐樹の背中にゆっくりと回される。何だか目の不自由な人が誰かの存在を確かめる行為めいたおずおずとした動きだった。そんな彼らしくないぎこちない動作に彼のこれまでの不安を知る。
僅かに唇を開き、舌の先で彼の唇を舐めた。待ち構えていたように彼の唇が控え目に開く。舌を差し込み彼の口腔内の感触を味わう。彼も舌を絡めてくるのでそっと吸い上げた。
彼の腕に力がこもる。それは甘い鎖の感覚で祐樹を縛る。もう誰に見られてもいいとさえ思った時にガタリと音がした。扉の方向ではない不思議な場所から。
ああ、あそこは誰も入らない開かずの扉――元はナースの詰め所だったらしいが、医師と同じところでは医局内の話しが漏れてしまうので佐々木前教授の前任者だかその前の教授だったかがナースの詰め所を廃止して以来、誰も入って行かない場所になっていたなと思う。そんなところに一体誰が?と。
抱擁を解く。教授も唖然とした表情で祐樹を見詰めているが、動揺の色はなかったことに少し安心した。誰に見られたっていいと思っているのは祐樹だけではなかったようだった。力いっぱい扉を開く。意外な人物が、途轍もない姿で佇んでいた。
長岡先生だった。まずそのことに安堵する。誰に見られても良いが、山本センセと仲良しの医師だとやはり困った事態になっていたわけで。長岡先生は香川教授の味方であることに疑いを差し挟む余地はない。彼女は多分動脈を切ったのだろう、いつもの高そうなスーツが血だらけだ。先ほどの祐樹の白衣よりも――白衣に血を飛ばさないようにするのが優秀な外科医の心得だと先輩に聞いてそれを実行していたので――酷い有り様だった。
医師ならば、いや医療に少しでも興味のある素人でも知っている動脈を傷つけたら心臓よりも上に傷口を上げるということをうっかりと忘れていたらしい。しかも靴は一足ずつ違うものを履いている。自宅で怪我をして、ここまで治療に来たらしい。何故自宅で手当てをしなかったのか謎は残るが、長岡先生らしいといえば長岡先生らしいエピソードだった。そんなことを考えていたのは一瞬で、祐樹は叫んだ。
「長岡先生、どうしてここに?」
彼も声を発した。どうやら理性が戻ってきたらしい。彼女は業務時間外の口調、おどおどして自信無げな口振りになって経緯を語る。
彼女の傷を見ていられなくて、それに高そうなスーツがこれ以上血で汚れるのも気の毒だと手当てをした。傷口を改めるがいつぞやの祐樹の手術中の怪我よりも小さい裂傷だった。出血が早く止まるようにきつめに包帯を巻いた。
彼女なら何も言いふらさないだろうが、祐樹の口で説明するよりも最愛の彼からの言葉の方がいいだろう。あの扉は祐樹が医局へ入って来た時から動いていないし、元ナース控え室の扉は一つなのだから一部始終を見ていたに違いない。そういえば、少し扉が開いていたな……と今更ながらに思い返す。誰も使っていない部屋という先入観で確かめなかった自分を責める。
「この人が、アメリカ時代に言った『心に決めた人』です。軽蔑しますか?」
彼が静謐な口調で滑らかに言った。
彼の「高嶺の花」は長岡先生だけが知っていると以前彼は言っていた。となると……。自分以外には有り得ない?
でも……しかし……どうして……脳の中に意味を成さないフレーズが稲妻のみたいに流れて消える。
彼の瞳は真剣さの中にも静かな決意と、祐樹に対する深い想いを湛えていて……今まで見た彼の表情の中で最も祐樹の胸に迫ってくる。
茫然自失の祐樹を我に返らせたのは長岡先生の言葉だった。
「いえ、驚きはしましたが、何となく納得しました……もちろん誰にも言いません。私だけの胸に秘めておきます」
納得してくれるのか……と何となく誇らしい。自然に笑いが込み上げた。彼の顔を窺うと静かに、そしてどこか嬉しそうに微笑んでいる。その笑みは祐樹が今まで見たことのない心からの笑いのような気がした。
「今日はシャワーを浴びる時、極力濡らさないようにビニール袋か何かで包んで入って下さい。万が一包帯が濡れてもいいように油紙を中に入れてますので、少々なら濡らしても大丈夫ですが」
そう言って、彼女を夜間非常口まで送った。彼もいつもと変わりない歩き方をしている。どうやら闖入者のせいで平常心に戻ったらしかった。彼女がタクシーで去って行くのを見送ると、隣に佇む最愛の人に微笑みかけた。彼も端整な顔に極上の笑みを浮かべている。
「先ほどの返事……を聞かせて戴いていませんが?平手打ちでも結構ですよ。何しろ愛の告白をしたのは生まれて初めてなので……初めてのことは叶わないと誰かが言っていますし」
平手打ちはないだろうな…と、彼の表情を見て思った。彼は世界で一輪しかない貴重で綺麗な花が綻んだような微笑を浮かべている。
「生まれて……初めて……?」
彼の無垢な瞳が驚いた光を宿していた。
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