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第十五章 第3話
今までの医局のゴタゴタとそれにまつわる真相究明や、最愛の彼のこれ以上心痛を増さないために祐樹はこれまで以上に心労が増えた。頭脳には少しは自信を持っていた祐樹にとってもそれはあまりにも過酷なことですっかり理性のストッパーが鈍くなっている。
彼の心情を今すぐ直ちに聞きたいが、ここは職場の夜間出入り口の玄関であることを今更ながらに気付く。
平手打ちが行われる可能性は彼の薔薇色の微笑みから察すると殆ど0%だろうな……と思っていたが、彼の心情の吐露はここではマズいと判断する。
「どこか、2人きりになれる所に行きませんか?ホテルはチェックインしているままですよね?」
彼にだけ聞こえる音量で呟いた。
「私が一番聞きたかった祐樹の言葉が聞けた今……私のマンションが一番近いのだが……?」
彼が控え目に誘ってくる。彼のマンションに祐樹は出入り禁止と以前言われたこともあったなと懐かしく思う,そんなに時間は経過していないのに彼に対する心情の変化やその他のことで祐樹がいつも以上に慌しく過ごしたせいだろうか?
祐樹から愛の告白をしたものの、彼の言葉では返事は返答してもらっていない。そんな宙ぶらりんのまま彼のマンションに行くのは憚られた。
「Rホテルで貴方の気持ちを教えて下さい。マンションにお邪魔するのは、お返事をしっかり聞いた上でのことにしたいのですが……」
彼が「心に決めた、高嶺の花」が祐樹を指すことに間違いはないと思ったが、直接経緯を聞きたかった。彼と晴れて恋人同士になれたなら、彼のマンションの部屋に行くのは大歓迎だったが。
まだというかもうと言うか時計の針は8時過ぎだ。ホテルの部屋で彼の気持ちを聞きたかった。彼の容姿からして学生時代からモテていたに違いないのに一面識もない(と思われる)祐樹がどうして彼の「高嶺の花」だったかも知りたい。
「……分かった。ではRホテルに行こう」
彼もやっと職場であることを思いついたらしい。どんな綺麗な花にも負けない色香を纏った雰囲気で祐樹を圧倒する。二度目の逢瀬から彼の雰囲気や仕草や表情は見ているこちらがドキリとするほどの清純かつ色気のある雰囲気を纏っていたが、今回はサナギが蝶に羽化したかと思えるほどにさらに幸せ色のオーラを纏っているようだった。祐樹の告白を聞いてから。
タクシーだと渋滞に巻き込まれるかもしれないので、JRで大阪に行くことにする。JRは帰宅するサラリーマンで混雑していたが、京都駅は降りる客も多いので2人は並んで腰を下すことが出来た。彼はさり気なくジャケットを脱ぎ、ふわりと下半身に掛けた。一般乗客は「寒いので、下半身を暖めているのだろう」と思うだろうが、上着の下で祐樹の手と絡まりあっている。ここで指を離したら祐樹がどこかに行ってしまうのでは?と危惧している感じの指の強さだった。
まだ心の奥底では心配しているのだろうか?そんなに祐樹を信じていないのかとも思ったが。ただ彼の前で過去の恋愛遍歴を聞かせてしまったのは自分なので、彼だけを責めることは出来ない。
祐樹も彼の冷たくしなやかな指先を自分の指に絡め、彼の指に愛しさを込めて微弱に動かす。指も性感帯の一つなので彼はうっとりと目を閉じている。乗客は眠っているようにしか見えない程度だったが。その表情は全てに満足しているのが分かってしまう。
Rホテルに着くと、彼は部屋の鍵を受け取っている。どうやらクラブフロアのスタッフに預けっぱなしだったようだ。
見慣れてしまった部屋に入ると、彼をオッドマン付きの椅子に座らせた。随分疲れているようだったので。彼はオッドマンには細く長い脚を預けずに安楽椅子に端然と座っている。祐樹はデスクの椅子に座ろうかと思ったが、彼の正式な言葉を聞くまでは思いの丈を告白する積りだった。彼に懇願するために彼の横に膝を付いて座った。祐樹が生まれて初めての愛の告白をしたが、返答はまだ貰っていなかった。
今までの彼の様子から察すると、イエスの返事が返ってきそうだが…数々の自分の無体な仕打ちを思い出すと――特に最初の逢瀬の時はかなり手酷いことをしたという自覚は有った――居たたまれない。何だか、学生の時の試験で「自分の答案は自信があるけれども成績を見るまでは安心出来ない」という心境だなと思う。それもその試験の出来次第では留年に関わる程の……いや医師国家試験の結果を待ちわびている時よりも時間の経過が遅く感じた。
椅子に座って何かを考えていた彼は、震えているが薔薇色の唇を開いた。
「私も愛していた……いや、愛している…もうどうしようもないほどに……。それにこの恋は一生片思いだと思っていた。学生時代からずっと…祐樹だけを」
震える唇と、いつもは滑らかな口調が途切れ途切れになっている。
「高嶺の花」と彼が表現していたのはやはり自分のことだったのだな…と今更ながらに納得をし、胸が詰るほどの歓びはこみ上げる。木目調で落ち着いた部屋は祐樹にとって見慣れたものとなりつつあるが、今日だけは何だか別の部屋にいるような浮遊感に包まれる。上品でシックに纏められたホテルの部屋だったが、何だか天国にでも居るようだった。
が、どうも腑に落ちない。そういえば学生時代、学年が違ってはいたが同じ佐々木前教授に師事していたハズで…彼を目にしていないのも今となってはおかしな話だ。学年を超えた飲み会などに祐樹は時間の許す限りは出席してきたし、学年に関係ない授業もたくさんあった。
「……良かった。貴方が……私のことを拒まないでいて下さって……心の底から歓喜しています。こんな深い関係になってから……申し上げるのも失礼かも知れませんが…手恋人として付き合って……下さいます……か?」
彼の許しを請うために頭を深深と下げた。自分の声も震えているのが分かるが、どうしようもない。彼への愛情が強すぎるせいだ。万が一拒絶されたら……、一生立ち直れないと漠然と思う。跪いているために神に懺悔する敬虔なクリスチャンにでもなった気分だ。
答えがなかったので恐る恐る彼の表情を見た。彼の雄弁な瞳は歓喜の光を宿している。唇がわなないていて言葉にならないようだった。
「もちろん…祐樹が迷惑でなければ付き合って……欲しい。出来ればずっと……」
その言葉を聞いた瞬間、彼のスラックスに包まれた長い脚に頬を押し付ける、ほとんど無意識の動作だった。
「ええ、その積りです。私こそ貴方が愛想尽かしをしない限りずっと付き合って……下さい」
懇願の口調で言うと彼は薔薇色に染まった頬のままただ頷いた。
祐樹も以前のゲーム感覚の恋愛をしていた頃には分からなかった感覚だったが「言葉に出来ない想い」というものが実際に存在することが彼を愛するようになって初めて分かった。
だから彼の頷きもそういう種類の頷きだと自然と分かってしまう。彼の両頬に手を添えて、言葉にならない想いが伝わって欲しいと切望した。彼の上気した頬の温かさを比類のないものとしてただ、包んでいた。このホテルで待ちわびて、大学病院に急いで戻って来た彼は仕事中のオールバックにしている前髪が汗のためだろうか、白く広い額に中途半端に落ちかかっている様子すら愛しく思える。
「学生時代から?しかし、私は貴方のことを拝見したことは有りません……よ?キャンパス内で見かけたら、貴方の容姿は絶対に目を留めたと思います。今は、貴方の容姿だけではなく性格も仕事に対する誠実さまで、全てが私を魅了しますが……、ただ容姿だけでも恋に落ちていたかと……?」
不思議に思ったことを質問する。彼がそういう行為の時は我を失うことは分かっていたが、今回ばかりは理性が有るうちに聞いておきたかった。お互いに気分が高揚している今だからこそ。
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