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第十五章 第4話
彼は表情の選択に困り果てたように多彩な表情を浮かべて、その後患者さんへのムンテラ――病状説明――を行う時の冷静な顔をした。ただ、懐かしさと慕わしさの色は滲ませていたが。
「私が、祐樹を意識し始めたのは学生時代のことだった。時々キャンパスで見かけて……祐樹の容姿はもちろん、友人達を喋っているその様子を見ているとどうしようもなく惹かれた。ただ、祐樹はノーマルだと思っていたし、私も自分の性癖は気付いていたけれどもだからといって男性と付き合おうとも思っていなかったし、ただ見ているだけで良かった。
私は以前祐樹に言ったように、両親を早くに亡くしている。その上内々の婚約者も事故で死亡した。私と個人的に近しい者は死とも近くなっていくのかと漠然と思っていた。私と親しくなった人は死とも近くなるのではないかと懼れていた。そんな不安の中で祐樹の姿は生命力に溢れていたので……祐樹なら大丈夫ではないかと思わせるものが確かに存在して……それで一方的に憧れていた。キャンパスの中で輝いていたから……」
そんなに輝いていたかな?と思う。祐樹はごくごく自然に振舞っていただけだったが。
「別に普通に過ごしていただけですよ?友人達とお喋りをしたり講義についての不満を言ったり授業のノートを検討したり」
首を傾げて小さな異議申し立てをする。
「私はそれが出来なかった。友達は居たが何というか……表面的な付き合いだけをしている感じで……それに心の壁を取ってしまうとその友人も死に近付くようなそんな錯覚に襲われていて……今となってはそれが思い込みだったとはっきり分かったが、当時はそうは思ってなかった。それに友人達は皆家庭的に恵まれていて……裕福で幸せそうだった。自分とは違った人種のような気がした。生まれてから金銭的な苦労や不幸なことなどなかった人間が圧倒的だったし」
「ああ、それはありますね。大部分は教育費も含めて金銭的には困らないで成長した人が多いのは確かです。ただ、私も含めてですが、そんな人間ばかりではないと思いますが?」
「祐樹も『何も困らないでこれまで生きて来た人間』だと思いこんでいた。何だかそんな雰囲気を纏っていたし」
そう言われてこの時がどんな時かを忘れて苦笑した。
「それは……世の中には恵まれた人間もいればそうでない人間も居ると割り切って付き合ってきただけですよ?別に自分を卑下する必要はないわけですから。自分は自分、他人は他人と思っていました」
彼は祐樹を真剣な目で見て、そして澄んだ微笑を浮かべた。
「当時の私にはそれが出来なかった。自分は友達と人種が違うものだと自分を卑下してきた。それに私と個人的に近しい人間は死に近くなる……そう思っていた当時の私には祐樹が醸し出す生命力の輝きに魅了されていた。初めてキャンパス内で見かけた時は同じ学部だとも思わなかったが……同じ学部、同じ専攻だったと知って心底驚いた」
「しかし、私は貴方のことを知りませんでした」
「……それは……私の勇気の無さのせいだ。知り合いになったら多分もっと知りたくなると思ってずっと避けてきた。合同の飲み会には欠席して、合同授業などは色々な口実を作って逃げてきた。些細なきっかけで救急救命室の手伝いをするようになったのでそれが可能だった。あそこの手伝いをすると言えば、佐々木教授も止め立てはしなかったし。
そういえば、祐樹が一人解剖実習をしている場に出くわしたこともあった……な。今思えば一人で解剖をしているというのは不自然だが。その時の真剣な表情と正確で慎重な手技に魅了された。祐樹は多分気付いていなかっただろうが、私は感心して見ていた」
ああ、そういえばそんなこともあったような……と。
「あれは……講義でどうしても納得出来ないことがあったので、教官に頼み込んで許可を貰ったんです。対人関係は――人は人、自分は自分と割り切って付き合ってましたが、勉学は別ですから。それにしても専攻が同じなのにホントに顔を合わせる機会を作らせないなんて……そんなことが可能だったことの方が驚きです」
彼は面映げな顔をして笑った。
「ああ、一応佐々木教授に良くして貰っていたので……救急救命室に行くと言えば止められなかった……な。でも私は祐樹のことを時折は見ていた。気付かれないように。
しかし、強烈に印象に残っているのが『グレイス』での出来事だ」
イキナリの固有名詞に驚く。
「『グレイス』に学生時代に行かれたのですか?」
「ああ、病棟研修の時にオーナーの上村さんに誘われた。あの人は雰囲気で私のことも分かったらしい。好奇心で店に行ってみて、心の底から驚いた。祐樹が居たのだから。それまでは祐樹はノーマルな人間だと思っていたし……その上とても綺麗な人に誘われていて……あれはとてもショックだったな……」
そういえばそういうこともあったな……と思う。ただ、祐樹は彼には気付かなかった。誘ってきたのは、確かアキという名前のエキセントリックな男性だ。
「綺麗って、貴方の方が綺麗じゃないですか?確かに誘われましたし少しの間は付き合いましたけど……愛想尽かしをして別れました」
とても不思議そうな表情を浮かべた。
「私の方が?いやそれはないだろう?」
またまた、この人は……と思う。やはり杉田弁護士の言っていたことは当たっている。本人に自覚がないというのは本当らしい。
「綺麗です……よ?ナースが騒いでいるのをご存知ないのですか?それにこんなにも私が惹かれたのは貴方だけです」
幽かに頬を紅らめて彼は言った。
「そう……か?祐樹がそう言うのだから……そうなのだろうと思うことにする。ナースが騒いでいたのは私の姿が珍しかっただけだろう?」
祐樹としては複雑な気持ちだった。彼が増長したりいい気になったりするような人でないのは知っているが本当のことを知らせていいものかどうか。祐樹としては自分以外の人間に彼の心を渡したくはなかったので。
祐樹が沈黙すると、彼は追憶の瞳をして言った。
「祐樹が私と同じ性癖を持つ人間で、そしてあの綺麗な人と付き合っていると思うと……それだけで心が引き裂かれるように痛んだ。女性と付き合うのなら……それはそれで諦めは付く。しかし……男性とも付き合える人だと知ってからは自分の心に抑えが効かなくなった。それで……卒業と同時にアメリカに行くことにした」
その言葉に祐樹の心は雷に打たれたようになる。
「……私が原因で……まさか、アメリカ……に?」
微塵も考えたことがなかっただけに声が掠れた。
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