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第十五章 第6話
彼は溶岩流を内に秘めた山中の静かな湖水を思わせる声で言った。
「ああ、あれは方便だ。確かに長岡先生の婚約者の病院からもオファーが有ったことは事実だし、具体的な待遇なども提示されてはいたが。アメリカ時代に彼女の婚約者と彼女を交えて食事をしたことがあって……それから時々はEメールで連絡は取っていた……。
ただ、私が日本に帰って来たのは、もう一度祐樹に逢うため……そして今度こそは心残りのないように努力してみろとLAの友人――そういえば、彼だけだな……全てを打ち明けることが出来たのは――に励まされたからだ。
もし、祐樹に恋人が居るとか、居なくても私のことを見向きもしないら、潔く諦めてアメリカに帰る積りだった。
恋人が居ないようなのは祐樹の勤務時間を見て確信はしたが……でも、どうやって近付けば良いか全く分からなかった。
私が日本に帰国した時に祐樹が迎えに来てくれていて……とても慕わしい気持ちと動揺する気持ちで頭の中が真っ白になった……な。そういえば。今日も違う意味で真っ白だったが」
その時のことを思い出したのか、彼の尖った肩が小さく震える。祐樹は中腰になって彼の両肩に手を置いた。彼の心配が杞憂であったことを知らしめるために彼に比べれば大きな手で両肩を抱いた。
「すみません……ご心配をお掛けして……ただ、救急救命室の助っ人のために阿部師長に無理やり拉致されたようなものでして……」
彼は柔らかく儚い微笑を浮かべた。
「医局で祐樹の姿を見て、それは分かった。多分…手祐樹があの時抱き締めてくれなかったら安堵の余り立っていられなかったと思う」
彼の睫毛が微細に揺れる。
「でも、行き違いになっていたらどうする積りだったのですか?」
「それは心配ない。クラブフロアのデスクに伝言を残してから京都に向かった。祐樹が来てくれて伝言を読めば連絡が付くようにと」
我を忘れていたにも関わらず、伝言を残せる彼の頭脳の働きに感服した。
「やはり貴方の事務処理能力も物凄いです……ね。私が貴方に不自然な態度を取っていたことを山本センセの陰謀の結果だとは思わなかったのですか?明敏な貴方なのですから違和感を抱いたハズですが?」
肩に手を置くだけでは飽き足らず、座っている彼の上半身を抱き締めた。祐樹の体温のせいだろうか、彼は満足と何か決意を固めた色を宿した吐息を零す。
「もちろん、その可能性は考えていた。80%が医局の不穏な動きに対処するために祐樹が敢えて私に近付かないようにしているのではないかと思っていた。けれども、祐樹が以前言ったように、私との――肉体関係だけだが――関係に嫌気がさして……自然消滅を考えている可能性は20%程度残っているような気がした。私は祐樹が先ほど見抜いたように祐樹の嘗ての恋人が多分そうだったように……祐樹を身体でも満足させていないだろうな……と思っていた。生涯で二度目の体験だったし、一回目は何というか淡々とコトが運んだ感じだった……。私の体内に……精液を注ぎ込んだのは祐樹だけだ……そんな経験値の浅い人間が祐樹のような慣れている人間っ」
その言葉を聞いて、祐樹は強く彼を抱き締めた。その唐突な動作に彼の言葉も止まる。
「もしかしなくても……最初の夜に病気の心配はないと言い切ったのはそれが根拠ですか?貴方の綺麗で極上の内壁を直接触れたのは私が最初ですか?」
確かに最初の夜は全てがぎこちなかった。祐樹は自分の行為が彼を驚かせたものだとばかり思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「ああ、LAで自棄になってそういう関係になった相手とは粘膜や精液が直接触れるのがどうして嫌で……それに向こうの人間は安全な行為を望んでいたし」
「で、私なら良いと」
さらに咽喉が渇く質問をしてみた。
「ああ、祐樹が一回でも――それが怒りからであったにせよ――私の中に挿ってくれるなら、それだけを生涯の宝物にする積りだった。祐樹がくれる体液もだから愛しかった。一回きりの行為で満足するつもりだった。だから、翌朝祐樹が『次は?』と聞いて呉れた時には本当に驚いた。本当に私でいいのかと自問自答した。理性も感情も歓びの震えが来て……。あ、それは一回目の行為全てがそうだったが……余り良く覚えていない。やっと想いが叶ったという至上の歓びだけが頭の中を駆け巡っていた。その翌日も……夜を一緒に過ごせたのだから」
こんなに綺麗で純真な彼がそこまで想っていてくれたことに祐樹は殆ど茫然自失になる。何しろ、振られる覚悟でいたのだから。
「そんなに想って頂けていたとは……光栄で……今は言葉に出来ないくらい貴方のことをもっと好きになりました」
真剣な眼差しで彼の澄んだ瞳を凝視する。彼は目を逸らさずに、薄紅色をした泣き笑いの瞳の光で祐樹を見ている。ただ、その瞳には祐樹には理解不能の決意を宿しているようにも思えた。
「一つ、解せないのですが……先ほど20%で私が自然消滅を目論んでいると読んでいらっしゃいましたね?それなのに何故あんなに慌てて医局にいらしたのですか?山本センセの件で私が動いていることはご存知だったのに……?」
彼の瞳が蒼くて黒い不思議な光を放つ。
「私は、物事はすべからく悪い方を優先して考える習慣がある……。多分、身近な人間が死亡したからだと思うのだが……、だから80%よりも20%の――私にとっては絶望の縁に立たされることになる、祐樹が去ってしまうという――恐怖が実現しないように……間に合いますようにと医局に急いだ。実は祐樹の居ない生活はもう耐えられない。斉藤医学部長には東京の病院に行くと申し上げたが、あれは嘘で…祐樹との関係――たとえそれが肉体関係だけでも――が絶たれてしまったら……同じ国には居られない。
幸い、向こうの友人――優秀な内科医だが――は私のことを心配してくれて、『もし、この恋が成就しないのなら私に合った病院を紹介してくれる』と言ってくれていたので……。
今夜、祐樹が自然消滅を目論んでいて、病院にも居なかった場合は、辞表を斉藤医学部長の部屋の前に置いてその足でアメリカに行く積りだった」
その言葉を聞いて祐樹は身の凍る思いを生まれて初めて味わった。大きく見開いた目には彼の端整な顔しか映っていない。自分が情けないが、この場に相応しい言葉が出て来ない。
祐樹のただならぬ顔に彼は形の良い眉を顰めてポツリと漏らした、とても辛そうな口調で。
「私のこんな重すぎる想いは、多分祐樹の負担になる……。だから言いたくなかった。
けれども零れたミルクは元の皿には戻らない。私の気持ちは全部伝えた……積りだ。言い残したことがあるかも知れないが……。
祐樹は、今日初めて『愛している』と言ってくれた。その言葉を一生抱いてアメリカに行く。私にとって一番聞きたい言葉を聞けた。しかし、私の想いはやがて祐樹の重荷になる。――いや、既にもうなっているかもしれないな。だから二度と祐樹とは逢わない。お手数だが、この封筒を斉藤医学部長に渡してくれ」
彼はすらりと立ち上がり、ジャケットのポケットから封筒を取り出す。
『退職願』と書いてあった。普段は優雅な動作をしていた彼が、今夜は慌しく動いた証のようにその封筒は波打っていた。
彼の瞳の光は透明で清清しげな色をしていた。ある種の悲壮な達成感と祐樹に対する感謝の眼差しを浮かべている。
「今まで有り難う」と彼の雄弁な瞳と微細に震える唇が語っていた。
祐樹は彼の言葉の意外さと彼の切ない決意を知り口の中が乾いて言葉を紡げない。そんな自分がただただ情けなかった。
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