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第十五章 第7話

 「退職願」の封筒を両手で受け取って、すぐ側にある茶色のデスクの上に丁寧に置いた。  祐樹は胸中に溢れ出る想いを言葉にしようとして、今夜の衝撃で唾液の分泌量が極端に減少していることを自覚した。  そっと彼の側を離れ、客室備え付けの青いグラスを二つ取るとミネラル・ウオーターと氷を入れた。自分の分は直ぐに飲み干して、もう一回水を注ぐ。水を飲んだことで少しは落ち着いたので、グラスを二つ持って彼の側に歩み寄る。グラスを机の上に置いて、彼の綺麗な凝視する。  彼の瞳は透徹した光を弱々しげに纏っていた。 「貴方を殴りたい……と思いました。――人を殴りたいと思ったことは生まれてこのかた初めてですが――。どうして私の想いを告白したのに……アメリカに行くの……ですか?私を置いて」  彼の瞳が辛そうに眇められた。 「祐樹が私と一緒に居てくれた時は、とてもとても幸せだった。しかし、今回の件で思い知らされた。祐樹が私のことを避けようとしていたのは医局絡みのゴタゴタだと今分かったが、知らされるまでは本当にどうしていいのか途方に暮れていた。  もう、あんな思いには耐えられない。やはり私は好きな人が居ても、その人をそっと見ているだけが分相応な人間なのだと思い知らされた。  祐樹が私を殴って気が済むのなら……いくらでも殴って……良いから」  祐樹が右手を上に上げると、彼は目を閉じた。殴られるのを覚悟している静謐な表情も潔くてとても綺麗だった。  殴る代わりに両手で彼の頬を包んだ。彼は驚いたように眼を開けた。 「貴方が気にしてらっしゃることは二つですね。一つは私への想いが、私の負担になるかもしれないということ。そしてもう一つは、私の行動が――これは貴方のために良かれと思ってそうしたのですが――貴方の気持ちを振り回したこと。それだけですよ……ね。そして、私に対する想いは変わっていないという解釈で構わないでしょうか?」  彼の瞳が母親にはぐれた幼児に似た光を帯びた。 「……そうだ。祐樹は……多分恋愛を楽しむタイプに見える。しかし私はその点ダメだ。人間関係も上手く作れない。どうやって作ったらいいのかも分からないし……もともと、あまり人間に興味がなかったからかも知れないが……。そんな祐樹にこんな想いは重過ぎるだろう?」 「確かに……貴方以外から、そんな告白を受けたら……正直、重過ぎると感じたと思います。そして離れようと思ったかもしれない。でも、貴方は特別です。それほど惹かれています」  彼の身体のラインをなぞる。彼が振り払おうとすれば簡単に出来るように弱い力で。  彼の表情は切ない中にもほのかに喜びの色を帯びていた。それを確認してから薄い背中に腕を回して、そっと肩に顔を埋める。彼の身体がひくりと動く。  杉田弁護士のアドバイスを素直に守っていれば良かったと切実に後悔した。彼をここまで追い詰めたのは自分だ。彼の心労を慮って……さらに疲れさせるよりも祐樹一人が背負い込んでおく方が良いと判断したのだが。これが完全に裏目に出るとは。最初から全てを話しておいた方が良かったのだと、唇を噛んだ。 「すみません。貴方を追い詰めたのは私ですね。実は山本センセが興信所に依頼して私の行動調査をしていたようなので……盗聴器まで使用して。でも、そのことを貴方が知ればもっと貴方が苦しむ……そう思って、黙って行動したことは心からお詫びします。今日も、やむを得ない事情が有ったからとはいえ、待ち合わせの約束を守れなかった……貴方がどんな気持ちでいたかを察する余裕が無かったのです。本当に申し訳ありません」 「祐樹……尾行とか盗聴器まで?」  彼の声が驚いた色を帯びた。 「ええ。貴方に逢いに行こうとして――この前の逢瀬の時です――尾行者の気配に気付きました。振り切りましたが。杉田弁護士に相談して盗聴器の存在を示唆されて……実際、私の服にもライターに模した盗聴器が潜んでいたこともあり、貴方との関係を山本センセに知られるわけには絶対に避けないといけない……そう思いました。私はいいんです、別に貴方との関係が公になっても。  でも、貴方は違う。この世界では有名人だし、おまけに私の上司でもあります。マス・メディアにも取材を受けているでしょう?あれは貴方の意思ではなく斉藤医学部長の命令だとは思いますが。そんなに有名な貴方と私がこんな関係にあるとゴシップ専門の週刊誌などにリークされると貴方の将来に傷が付く……ゴシップ誌は面白おかしく書くのが商売です。『パワー・ハラスメントを同性の研修医に仕掛けている』などと書かれたらどうしようかと思いまして……それで言動には注意してきました。今さら謝罪しても遅いかも知れませんが……。  ただ、これだけは言わせて下さい。  貴方の想いは私の重荷ではありません。貴方のその気持ちがとても嬉しいです。アメリカにいらっしゃるなんて切ないことを仰らないで下さい。その気持ちのまま、私の傍に居て下さい。今夜の貴方からの告白は……正直、驚きましたが……その驚愕はとても嬉しいモノでした……よ?もっと貴方のことが好きになりました。いや、以前から――思い返せばこのホテルで最初に関係を持った時から――貴方のことを愛し始めたと思います。そして貴方のことを知るにつけますます愛情は深まりました」  彼の細い肩が震えている。先ほどとは違った口調が祐樹の耳を打った。 「以前から……愛して……くれていた?しかし、私とそういうコトをしていても、一切そんな言葉はなかったので、ただ肉体関係だけの付き合いだとばかり思っていた。私はそれで充分だったが……」  ああ、そういえば「愛している」とかそういう類いの言葉は睦言にしていなかったな……とまたしても失敗を悟る。「綺麗だ」などの感想を述べるのに精一杯で……彼とのセックスではいつも彼の身体に惑溺しきっていた。過去の行きずりの遊び感覚の恋人達と身体を重ねる時には存在した心の余裕がなかったのは確かだ。 「それは……貴方の魅力が素晴らしすぎて……言う余裕もなかったのです。正直な感想を述べるだけで精一杯でした。本当に貴方は服を纏っていても全てで私を魅了しますが……セックスの時はまた違った魅力で私を虜にして下さいました」  彼は当惑した口調で言った。 「祐樹があの最中に私に言ってくれた言葉は……もしかして本音……だったのか?」 「ええ、そうですよ?何だと思っていたのですか?」 「てっきり、マナー通りの社交辞令だと思っていた……。ああいう時は褒めるものだろう?口先だけで?」  またまたこの人は……と思う。初心なこの人がどこでその手の知識を仕入れるのだろうか。 「そんなことをどこで知ったのですか?私は思ってもいないことは言わない主義です」 「確か、帰国途中の飛行機の中で暇つぶしに読んだ週刊誌に書いてあったので……そんなものかと。私は全く恋愛が分からない……だからせめて本からでも学ぼうかと……」 「どんな記事をお読みになったのかは知りませんが、私の言葉と週刊誌、どちらを信じるのです……か?」 「それは勿論祐樹……だが。しかし……」  この期に及んで戸惑いを隠せない口調にほんの僅かだが苛立った。  彼のこめかみに恭しいキスをして、心の底からわきあがる嘆願の口調で言った。 「……貴方だけを愛しています。私もこれからは貴方に思ったこと全てを申し上げますので、どうか私の言葉を信じて下さい。悲しませるようなことはしないですから」  彼の澄んだ瞳が涙の膜に覆われる。 「分かった。祐樹の言葉だけを信じることにする。これからは、ずっと……」

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