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第十五章 第8話

 彼の涙で潤んだ瞳を見るのは初めてではない。しかし、今夜の瞳の光は祐樹に対する愛しさを内に秘めた紅色が蒼い視線の底にたゆたっているようだった。  至近距離で視線を交わす。彼の細い腰を両手で抱いて、ただ見詰め合っていた。彼の綺麗な瞳に吸い込まれるまま。 「今までの私だったら……多分、祐樹に逢おうとせずに『辞職願』を郵送して……そのまま一番早い飛行機でアメリカに逃げて行ったと思う」  吐息とも呟きともつかない小さな声で彼は言う。「今までの彼だったら?」と疑問に思った。それに「帰る」のではなく「行く」と表現したところからも彼が日本に残りたいという本音が垣間見える。 「何が貴方を変えたのですか?」  何か彼が重大なことを告げようとしている気配を感じて質問を重ねる。腰に回した手を静かに上げて行き彼の肉付きの薄い背中を励ますように、言葉を促すようにソフトなタッチで叩く。 「祐樹が……ずっと憧れてきた祐樹が……私とそういう関係を続けてくれたことと、星川ナースの件で私の変わりに怪我をしてくれたこと……。そして、推定80%で私のために動いてくれたこと……まだ有る……な。祐樹の部屋に居させてくれたこと。  たくさんの貴重な思い出が有ったから、最悪の想定――祐樹が私を避けているという――が当たってないことを祈りながらこのホテルで待ち続けた。  医局のトラブルに巻き込まれていないかも気になったし、祐樹が私との関係を本当に絶つ積りかどうか、この目で確かめたかった。以前の私なら確かめる勇気はなかったと思う。初めて祐樹を見た時からずっと憧れていた……その祐樹が私を遠ざけるのは仕方がないと諦めるにしても、最後に一目会ってからアメリカに行こうと思って。  祐樹は私の太陽だった。初めて見かけた時からずっと……。アメリカ時代でも忘れたことはなかったし、この国に戻って……もう一度祐樹を見たかった。教授のポストも実は方便だ。仕事はアメリカの方が私には合っていると思う。……実際、他の大学からも招聘があった時も断った。この大学に誘われた時も……、一番に確かめたのは祐樹がこの病院で勤務しているかどうかだった。もし、他の病院で勤務していたなら、私は即座に断っていただろう」  祐樹が彼に自分の恋情を伝えたからか、彼はとめどなく心情を吐露してくれる。  そんなに彼が自分のことを想っていてくれたとは……。背中を抱く手に自然と力がこもる。 「有り難うございます。こんないい加減な男にそこまで想って頂いて。感激の余り何とお礼を申して良いのか分かりませんが……。  もしかして、最初に強気で誘って下さったのも私に心理的に負担を掛けないように?ですか?私はてっきり綺麗な顔と身体をお持ちだから……当然経験は豊富だろうと思っていて……医局のトラブルで自暴自棄になった貴方が男性と遊ぶことでストレス解消をしようとなさっていると思い込んでいました」  彼の頬に朱の色が一刷毛散った。 「そんな器用な真似は出来ない……。それに経験豊富でもない……あの時も祐樹が誘ってくれたから……反射的に言い返しただけで……。一回関係を持てればそれを一生の宝物にしようと……それで必死だった。祐樹の負担にだけはなりたくなかったから……」  彼の透明な瞳の輝きがとても綺麗だった。照明がオレンジ色というせいもあって様々な色に変化する。彼の涙の色とも相俟って。  祐樹は彼の瞳に魅入られながら、最後の質問をした。 「貴方は、ご自宅には恋人を招かないと仰っていました……よね?でも、今夜お聞きした中で自宅に訪問した人間は居ないのではないかと推察しました。あの時はそういうものかな……と思っていましたが。もしかして私の気配が残るのが嫌だったのでは?」  彼は黙って祐樹を凝視する。その瞳の色が雄弁に祐樹の推察が正解だと語っていた。 「そんなに……色々と悩んでいたのですか?私は貴方を愛し始めてから……ムシの良いことに……貴方から告白して下さったらいいのにな……と思っていましたし、貴方を心ならずも私の部屋から――それは盗聴器が仕掛けられている可能性が極めて高いと判断されたので仕方なくでしたが――追い立ててから、貴方がいらっしゃった余韻が部屋に残っているようで……とても切なかったです。もしかして全てを予想して、貴方は私をマンションに入れなかった?」 「そうだ……。一度でも祐樹をあの部屋に入れたら……不在の重さに耐え切れなくなるのは分かりきっていた。  何しろ、生まれて初めて憧れていた人なのだから。それに私も祐樹が告白してくれたらどんなに幸せかとも思ったこともある。だが、それは叶わない想いだと諦めていた。その意味でも今夜医局に駆けつけたのは正解だった……」  彼は透明な微笑を浮かべた。儚げでいて幸せそうな微笑。  祐樹はこの質問を最後にして彼の素肌に……そして彼の内部に刻印を刻み付けたいと思っていたのだが。余りにも綺麗で神聖な彼を見て、そして最愛の彼がこんなにも自分を想っていてくれたことに肉体ではなく、精神が歓喜にさざめいている。もう少しこの表情を見ていたいと、質問を続ける。彼の背中の感触を服越しに味わうだけで胸が張り裂けそうな恋情を覚えながら。  彼の手はいつの間にか祐樹のウエストラインを辿っている。細いが力強い指が祐樹の存在を確かめるように。 「小耳に挟んだのですが……M市民病院に執刀医として志願なさったそうですね?それはやはり私の母が居るせいですか?」  彼の瞳が驚愕の色を浮かべたのは一瞬のことで…直ぐにもとの真剣で美しい光に変わった。 「祐樹が、つかの間とはいえ私を受け入れてくれた。その恩返しがしたくて……しかし、私が出来ることといったら手術をすることだけだ。  祐樹が告白してくれた今だから本当のことが言えるが、告白がなかったら黙って祐樹の母上にせめてもの待遇改善をして……それに、私は両親が鬼籍に入っていることは祐樹も知っているだろう?何というか……親孝行の真似事をしたかった……。祐樹の母上だったら真似事でもなくなるような気がした。祐樹のことは私が憧れていたので、祐樹の母上も他人とは思えなくなっていた。  ただ、これは単なる自己満足だ。別に祐樹が……」  そこまで聞いて彼を力の限り抱きしめた。声が震えていることを自覚しながら彼の耳に懇願の囁きを流し込む。声が空気振動ではなく、液体で…彼の耳にずっと留まってくれれば良いのにと思いながら。 「ますます貴方のことが好きになりました。心ではなく、素肌でも貴方を感じたい。最愛の貴方を……それと、辞表は破いても……いいです……か?」

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