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第十五章 第9話
今すぐに彼の滑らかな肌や彼の内部に祐樹以外、誰一人として知らないひっそりと息づく天国のような場所を素肌で感じたかった。待ちきれない気持ちでジリジリしたが、その前に彼の辞表を破る……だけではなくこの世から抹殺したかった。もし可能ならば、病院にある医療廃棄物を処分するための高温焼却炉で跡形もなく焼いてしまいたいが。流石にそれは無理だろう。
彼の肢体から名残惜しげに身体を離す。デスクの上に置いてあった辞表を取り上げて、ライターを手にする。火を点けようとすると、彼が長く白い指で辞表をそっと取り上げた。
「ここではダメだ。このホテルの灰皿は小さいので焼き捨てる時には全部収まりきれない。ホテルが最も嫌うのは出火と食中毒だと聞いたことがある。
もし、小火でも起こしてしまったらこのホテルに出入り禁止になってしまうかもしれない。このホテルは祐樹と初めての記念すべき場所だし……とても気に入っている。だからせめて洗面所で焼き捨てよう」
先ほどまでの彼は祐樹への思慕を余すところなく伝えてくれていたのだが。現実的なことになると彼の事務処理能力と危機管理能力に彼の明敏な頭脳は切り替わったらしい。
思考の切り替えの早さは外科医にとっては重要な適正で…手やはり彼の天職は外科医なのだと――もう何度目かも分からないが――思い知る。情に流されている祐樹とはやはり格が違う。彼の方が今夜の感情の振幅が大きいハズなのに。
祐樹が持っていたライターも彼の細い指が奪い取った。彼はスラックスに包まれた細い脚で洗面所兼バスルームに向かった。当然祐樹も後に続く。
洗面所なら水も出るし、封筒を焼き捨てても全く問題はない。この部屋に入って来てから洗面所は使っていないので、シンクは乾いている。
彼は、辞表を持ったまま、祐樹のライターに点火する。
「本当に……良いのだな。焼き捨ててしまって……。これを焼き捨ててしまうと、私は多分、祐樹がウンザリするくらい、もっと祐樹を好きになるし、独占欲も強くなる。それでも構わないのか?」
彼の綺麗な瞳の光が今まで以上に強くなった。と同時に不安そうな色も纏っている。
すっかり心を決めた祐樹は決然と言った。
「構いません。貴方の独占欲を独り占め出来るのはむしろ光栄です。これからは一人で悩まないで……全て私にぶつけて下さい。私も――貴方には独占欲を感じます……よ?例えば、阿部師長の機転で変装して病院を抜け出した時の貴方の姿が新鮮過ぎて…うっとりしましたが…救急救命室のナースだけではなく、他科のナースまで携帯に付いているカメラ機能で写真を撮られたらしいですね……その画像は是非私も欲しいですが、その反面ナース達が大切に保存しているだろう貴方の画像を全部消去してしまいたいと思っています」
彼は心底分からないという顔で首を傾げた。
「確かに撮影はされていたが……私が――本意ではないにしろ――教授のポストに居るせいで……スーツ姿が当たり前なのに学生のような格好をしていたせいで、それがモノ珍しかったから彼女達は写真を撮っただけだと思うのだが?」
彼は職業的な才能はともかく、「人間に興味はない」と自らも言っていたが……人の気持ち――特に愛情面――を推し量って考えるタイプでは全くないようだ。彼は幾分細いももの、端整な顔立ちだし、身長も20代男性の平均値は越えている。しかも腰の位置は高いので足の長さも際立っている。大学時代も同級生にモテていただろうことは想像に難くない。
彼の性癖を知らない女子学生からアプローチは当然有ったハズで。
「貴方は学部時代から成績も良かったのでしょうね?」
イキナリの話題転換に辞表に炎を近づけようとしていた彼は怪訝そうに祐樹を見詰めた。
「まあ、そこそこは良かったと思うが?」
彼の「そこそこ」はアテに出来ない。佐々木教授(当時)が自分の講義をパスさせても救急救命室に行かせたことからも容易に推察出来る。祐樹などよりももっと成績は良かったハズで。
「講義ノートを貸して欲しいとか、レポートや論文を代わりに書いて欲しいと言って来た同級生の女の子は居ませんでしたか?」
ますます怪訝そうな表情を深くされてしまった。彼は早く辞表を燃やしたがっているようだった。
「それは、沢山有ったな……しかし、祐樹はどうしてそんなことを聞くのかが分からない」
「分からなくても良いですから、正直に答えて下さい。それでレポートとか論文を代わりに書いたことは?」
「外科志望でない同級生には――大体、女性は皮膚科とか内科や産婦人科を専攻する傾向があるので――私のレポートや論文が役に立つならと書いたことは枚挙に暇がなかったが?」
「論文を代筆して、『お礼に奢る』とか言われませんでしたか?」
彼は封筒に火を点けながら事も無げに言った。
「ああ、言われた。――お陰で『優』が取れたので、高級フレンチを奢るとか…○兆の特別室で極上の料理を振舞うとか。色々と――だが、私の書き散らした論文にそんな高級店の料理を振舞ってもらうほどの価値がないと思って全部断ったが?それが何か?」
彼は封筒が炎をはらんで燃えて行く様を見詰めている。その灰になる過程を注意深く、そしてどこか満足そうに唇に笑みを浮かべている。場所が洗面台なので彼の白皙の顔が仄かに色付いて行くのが鏡越しに見えている。祐樹の質問には事務的に答えているようだった。
どこの世界に論文やレポートの代筆だけで高級フレンチを奢る人間がいるだろう……か?
確かにこの学部は富裕層が多いが学生の小遣いなどはタカが知れている。
祐樹も代筆はしたことが有るが、男はファースト・フードか吉○家の牛丼を奢ってくれる程度だった。女子学生の代わりに書いたことも当然ある。レポートだけを欲しがっている女子もやはりお礼はファミレスで食事を奢ってくれた程度だ。ただ祐樹が「その気があるな」と密かに思っていた女子学生は例外なく高級な店で奢ると申し出た。学年が上になるにつれ、祐樹も恋愛をする気持ちがなくなっていたので全て断っていたが。
祐樹の予想通り彼も大学時代は女性にモテていたのだと再確認する。が、彼は「お礼」という言葉は、文字通り「お礼」だと思っていたようだ。
この人は、言葉の綾を読み取る能力に欠けている。そのことを再確認した。
彼には全ての気持ちを余すところなく伝えなければならない。そう思った。
辞表が完全に灰になったのを確かめて、彼は慎重な手つきで念のために水を掛けている。
忌忌しいモノが完全に消滅しているのを見て祐樹は彼の腕を掴んだ。
「母のことまで案じて頂いてとても嬉しいです。執刀の依頼が来たら、私を第一助手として連れて行って下さいませんか?」
「もちろん、その積りだ……祐樹も母上と会いたいだろうし……。出張扱いなら心置きなく祐樹は母上と会えるだろう?」
「その時に、貴方を母に紹介しても……いいですか?」
彼の瞳が迷いの色を浮かべる。
「私などが、祐樹の母上にお会いしても良いのだろうか?多分、祐樹の母上にとって祐樹は自慢の息子なのだろう?祐樹の結婚も楽しみにしているのでは?それなのに、私の存在で祐樹は結婚出来ない……、今のところは……。母上にお会いしたいのはヤマヤマだが……」
「いえ、是非会って下さい。紹介したいのです。母は薄々私の性癖に気付いています。そんな母に、『最愛の人』を紹介したいです」
彼の指に自分の指を絡めてベッドまで歩いた。横目で彼の様子を窺うと彼の薄紅色に上気した頬と潤んだ瞳がこれまでになく――今までも充分以上に綺麗だったが――祐樹を魅了する。
「祐樹が紹介してくれるなら……それはとてもとても嬉しい」
ベッドに着衣のまま押し倒すと、彼の腕が背中に回った。彼は初めての時よりも、羞恥に震えているようだった。
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