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第十五章 第13話

「もう少し……このままでいて……良いですか?」  彼は体内に祐樹の熱情の証を飲み込んだままだ。早く洗浄しないとさぞかし不快だろうな……と良心がチクリと痛む。彼は、祐樹の肩に頭を預けて情事の火照りを冷ましているのか物憂げでいてどこか満足そうな雰囲気を漂わせている。  行為後の彼の素肌はひんやりとしているが、皮膚の中に熱をはらんでいてとても触り心地が良かった。  彼の尖った肩に手をかけてよりいっそう身体を密着させる。 「ああ、いくらでも……」  満足げに言う彼は汗で前髪が額に掛かるのが鬱陶しいのか細い指でが前髪をかきあげている。その指先からも瑞々しい色香が濃厚に漂う。彼の指の動きをうっとりと見ていた。そういえばこの指が祐樹のモノを触ってくれたのだな……と思うと背筋に微細な電流が走った。 「そういえば……貴方の携帯の着信表示を見てしまったのですが。『DEAR』と。自惚れでなければ……言葉通りの意味です……か?」 「そういえば、祐樹は私の携帯で齋藤医学部長室の会話を聞いていたのだったな……。  答えはイエスだ。そうなれば良いなと……携帯の番号を半ば無理やり聞きだした時につい無意識に登録してしまった」  その時のことが祐樹の脳裏に懐かしさの感情を伴って再現される。メモリーをチェックした……と祐樹の口から告げても良かったが。彼の根本的な性格が未だに把握出来ていないので何となく憚られた。  暖色系の雰囲気を纏った彼の気配が変わることを内心懼れた。 「あの時、貴方は携帯の番号を綺麗に書いてありましたよね?しかも高価な紙に……あれは私の記憶違いでなければですが。もしかして、ずっと番号を教えたかった……のですか?」  直接肌と気持ちを触れ合わせたことで彼の気持ちもすっかり解れたようだった。 「そう……だ。祐樹の携帯電話の番号だけでも……何とかして直接知りたかったので……先に渡せば教えてくれるのではないかと思っていた。結局は、祐樹は教えてくれなかったが……私に催促されるまで」  彼の眼差しが艶やかで恨めしげな視線に変わる。 「あの時は、雲の上の人だとばかり思っていましたし……正直わだかまりもありました」  彼の眼差しが微妙に変化する。硬質な光がミックスされた綺麗な瞳だった。 「今は?」 「はい?何が今なんですか?」  心底分からなくてツイ聞いてしまう。彼のことなら何でも知りたい。 「だから……わだかまりをまだ持っているのかどうか……」  そんなことを気にしているのかと思う。充分に言葉にしないと分からない人だと今夜思い知らされたが、まだ不安は残っているらしい。あんなにも言葉と身体を重ねた後なのに。  ただ、今までの祐樹なら一笑に付しただろうが。  しかし、彼のことを愛するようになってから嫌われたらどうしようという懸念が払っても消えない危惧として心の奥底にわだかまるという感情を知った。 「今は、全くわだかまりなんて皆無です……よ。今夜も救急救命室での勤務が終った時に真っ先に電話しました……。本来ならば、救急救命のナースに拉致される前に連絡を入れておくべきでした。本当に済まなく思っています。ただ、携帯の電池が切れてしまっていて医局の電話でこのホテルにも、貴方の携帯と自宅に連絡はしました。携帯は『電源が入っていないか……』という情け容赦のないアナウンスに打ちのめされました。もう、逢っては下さらないのかと思いまして……」 「え?携帯……?私は携帯の電源は切らなかったし、電波の状態が悪いところには居なかったが?」  怪訝そうな彼の口調に祐樹はホッとする。携帯の電源が入っていないと知った時の絶望感を思い出す。きっとこの人は、祐樹が無意識にしてしまったこと――山本センセの興信所を使っての詮索をかわすためにしたことも含めて――祐樹の行動に自分が味わったよりも深い絶望感を感じていたのだろうな……と思う。普段は冷静な彼が、医局の中での抱擁を許してくれたのも、彼の理性の支配が外れた証だと。長岡先生には見られてしまったが。  他の医師ではなくて本当に良かったと思う。 「でも、繋がりませんでした。矢も盾も堪らず自宅にもお電話しました。留守番電話に私の声が残っていると思いますので、お疑いなら再生して下さい」 「祐樹を疑うなんて……そんなことはしない」  ポツリと漏らす彼の短い言葉の奥に祐樹に対する愛情の色が混ざっている。彼の肩を強く抱き、唇に触れるだけのキスを交わす。  彼の零す吐息が先ほどの行為の最中と同じ色に染まっているのを感じた。  唇を名残惜しげに離すと、彼は幾分物憂さが混じっているものの、いつものしなやかな動作で立ち上がり、脱ぎ捨てられた着衣の傍に近寄ろうとした。多分携帯を確認するのだろうな……と思って見ていると、完全に立ち上がった時に一瞬動作が凍りつく。  こみ上げる情動のままに激しく彼の内部を蹂躙したような気がする――特に最後の方は――彼の繊細な部分に傷を付けてしまったのかと彼の表情を息を殺して凝視する。  彼は描いたように形の良い眉を顰めて瞳を閉じてはいるものの、目蓋と頬が薔薇色の光をで照り輝いている。その表情は鮮やかで清楚な雰囲気の中にこちらの人間なら誰でも知っている丸山公園の枝垂桜の妖艶さが混じっている。  少なくとも痛みは感じていないようで安堵した。そして思い至る。今夜の祐樹は思考能力が半分麻痺した状態で……普段なら直ぐに原因が分かっただろう。 「私の差し上げた白い雫が、太腿を伝っているんです……か?」  彼の凄絶な色香を纏う肢体を見ていると知らず知らずに声が掠れた。 「そう……だ」  余韻を味わっているのか、彼は目を硬く閉じたままで言う。彼の若木のような肢体が大きく震えた。 「やはり、洗い流しましょう。そのままでは貴方が辛い……」 「いや……このままで……良い。私に祐樹が呉れたものだから……それに、祐樹のアノ匂いが私の身体から発するのは……本当に大切に抱いてくれた記念に……少しでも長く味わいたいので」  このひとは、初心なくせに殺し文句は上手い――本人は自覚していないようだが――彼の言葉も薔薇の艶やかさを含んでいる。  やっと落ち着いたのか、彼は長く白い脚で祐樹が脱がした衣服のところに歩み寄る。  スーツの内ポケットを探って携帯電話を取り出すと、途方にくれた声が彼の薄紅色の唇から発せられた。彼が情事以外でこんな声を出すのを初めて聞いて、祐樹は彼の魅力を再確認する。怖いほど彼に惹かれている。 「……電源…切ってある……。切った覚えはないのだが?」 「何度か、私の携帯にお電話下さったのですよね?それも焦って……その時に間違えて電源のボタンを押したのではないですか?」 「ああ、そういえば……神に祈る気持ちで祐樹の携帯を鳴らし続けた。全然通じないことに焦って、電源ボタンを他のボタンと間違えて切ってしまっていたようだ。祐樹も、私の電源が切られていることに焦ったのだろう。本当に申し訳ない」  悄然とした口調に、祐樹は唇を弛めて微笑んだ。 「良いんです。普段、とても怜悧で冷静な貴方が私のためにそれだけ焦って下さった証ですから」  祐樹の表情に安心したのか、彼は薄紅色の微笑みを浮かべた。  携帯を持ってベッドに戻った彼の幾分汗ばんだ背中を抱き締めた。白磁の滑らかさと、情事の艶かしさを保っている肌を指で楽しむ。 「私が日本に帰って来てから、携帯電話を新規で購入した。アメリカに行く時はまさか日本に帰ってくることになるとは思ってなかったので。携帯電話の説明書を読んでいて、一番初めに登録したいのは祐樹の携帯番号だった。半ば無理やり番号を聞いて、それが叶った時は嬉しかった……な」  彼の澄んだ眼差しも懐かしさを帯びる。そして、彼は祐樹の目に携帯の画面をかざす。  メモリーを呼び出し、登録されている電話番号の人名と――多くは大学関係者だったが、アメリカ時代の友人の名前も一人だけ有った――その人とはどういう関係かを祐樹の肩に頭を預けて説明してくれる。祐樹に対しては隠し立てをしないと決めたのだろう。その万全の信頼感に応えるために、プライベートは当たり前だが、職務も彼に恥ずかしくないようにこなして彼に相応しい人間になろうと魂の奥底から決意した。

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