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第十五章 第22話
「今から伺うと、連絡を入れたほうがいいでしょうね?」
先輩の柏木先生に伺いを立てる。
「呼ばれたことはないので分からないが……そうしたほうがいいだろうな……ただ……」
眉を寄せた柏木先生は、更に声を低くする。
「この呼び出しがウチの教授絡みだぞ。電話を取ったのが俺だと知って『香川教授と田中君は親しいのかね』と聞いてきた。『親しいようです』と答えると『いつから?』と。執拗に聞いてこられたので……無難に『学年は違いますが、同じ佐々木ゼミの後輩なのでその時代から』と答えておいた。何となくそう言った方が良いような気がして。これもこの病院に長く居る俺の勘が咄嗟にそう言えと」
柏木先生は、香川教授と学生時代は同じゼミに属していた。だから祐樹と香川教授が学生時代に知り合っていないことも当然知っている。柏木先生は学年を超えた当時の佐々木教授のゼミの飲み会で話して以来の仲だ。そんなに親しくはなかったが。
柏木先生は、2人の本当の関係を知っているとは到底思えないが……ただ、おぼろげながら彼と祐樹の醸し出す、もわりとした雰囲気は感じ取っているようだ。
「お気遣い有り難うございます。
ただ、呼び出される件は、医局のことだと思います。柏木先生も医局の本日の欠勤者をお気づきですよね?」
「ああ、医局のウワサでは佐々木前教授の心臓センターにヘッド・ハンティングされたそうだ」
ウワサを信じていないらしく薄笑いを浮かべている。それはそうだろう。柏木先生は確かな手技を持っている。ヘッド・ハンティングがかかるなら、自分こそが相応しいと自負しているのだろう。実力に裏付けられた確固たる自信も感じさせる笑みだった。
「ただ、勤務先が変わるのは本当です。また詳しいことを申し上げることが出来る時期が来ていないのですが、来たら真っ先にお知らせします。先生もご存知の通りそちらの件で少し動いたものですから。とにかく、行ってみます」
深深と頭を下げてから、病院長兼医学部長の部屋の短縮番号を押す。登録はしてあるが、誰も使ったことがないいわくつきの短縮番号「0」だった。
女性秘書が出て、名前を告げると「直ぐに来るように」との伝言だった。最愛の彼に知らせようかとフト思ったが、今知らせたところで教授職よりも上位の齋藤医学部長には香川教授も動きようがないだろう。いたずらに心配させるだけだと思い返す。今夜杉田弁護士の事務所にお礼に行く予定なので、その後全てを話せば良いだろうと判断する。
エレベーターの箱に入り通いなれてしまった教授階のフロアよりもさらに上層、最上階のボタンを押す。これは祐樹にとって初めてのことだ。いつもはこのエレベーターに乗る時は胸が弾んだものだが。今回ばかりは胃に異物感を覚える。
光の点いていない、彼の個室のある階の番号をじっと見ていた。
エレベーターを降りると、絨毯からして教授フロアとも違う。そして静寂さも。教授フロアにはまだ人の気配が感じられたが。この階は若い女性――多分秘書だろう――の机がポツンとあり、そこに座っているの人は美貌だが拒否のオーラを纏っている。名前と用件を告げた。
その途端、その女性は嫣然と微笑み優雅なお辞儀と共に先に立って歩き出す。先ほどまでは間違って下りてしまった間抜けな医師とでも思われていたのだろうな……と思う。
廊下の突き当たりに一際立派な木の扉がある。彼女のハイヒールを履いた長い足はそちらを目指している。
ドアの前に立って彼女は恭しくノックをし、祐樹の名前を告げると扉は開いた。香川教授室のように執務室があるのかと思えば、そこはさらに秘書の部屋だった。多分、秘書室長のような役割の女性だろう。先ほどの女性よりも多分年長だろうが、年齢不詳の美貌とスタイルの持ち主だった。その彼女も優雅に微笑んで次の扉を開ける。
何個扉があるのかと…思わず突っ込みたくなってしまう。が、そこが執務室だった。執務室と言っても、彼との逢瀬の場所である大阪のRホテルよりも――機能美は整ってはいるが――豪華なのではないか?と思わせる雰囲気の部屋だった。
救急救命室の血まみれの廊下や乏しい設備をフト思い出す。そことは雲泥の差だが、祐樹にとってはあちらの方が医師として相応しい場所に思えた。
「香川外科・研修医の田中祐樹と申します」
無難に頭を下げると、気難しそうで不機嫌そうな齋藤医学部長が、仮面を付けたような笑顔になり執務机から立ち上がる。
「まあ、そこに座りたまえ」
応接セットも見るからに高そうだ。といっても、医学部長が座るまでは直立不動でなければならない。
先ほどとは違う女性がウエッジ・ウッドのコーヒーセットを持って入室する。
叱責されるわけではなさそうだな……と判断する。叱るのが目的ならソファーは勧めないだろう。
齋藤医学部長が当然のように上座に座る。目で促された。ソファーに浅く腰を下した。
「研修医の君に言っても詮無いことだが……佐々木前教授の教え子は一体どういう教育をされてきたのやら……。香川教授の足を引っ張る輩が多いのだな……。教授職ならもっと教育に力を注ぐべきだった。今日、3通の『退職願』を受け取った。名前は心当たりがあるだろう?」
齋藤医学部長の真意が把握出来ずに曖昧に頷く。山本センセと祐樹の会話を録音していいる携帯越しに齋藤医学部長は祐樹の声も知っているハズだ。そして祐樹が山本センセ達の証拠集めをしていたことも。
「それに、香川教授も自分の医局の取り纏めが出来ないとは情けない」
胸ポケットからパーラメントのパッケージを取り出し「吸っていいかね?」と許可を取るのではなく儀礼的に口にしているのが丸分かりの口調で言った。
祐樹の中で何かが弾けた。相手が最高権力者であろうが言いたいことは言わせて貰おうと。
「しかし、齋藤医学部長も職務怠慢ではありませんか?香川教授はご存知の通り、本学の出身ではありますが、本病院勤務も経ずしての招聘です。黒木准教授のように下から上がって来られた方とは違います。
それに仄聞致しましたが、招聘は斉藤医学部長ではありませんか?でしたら医局内の取り纏めにも責任の一端はお有りになるかと愚考致します。元来香川教授の手技を見込んでの招聘話だったハズです。教授業務に関して他の教授と同列に扱うのは如何なものかと……。
それこそ、齋藤医学部長が先頭に立って香川教授を擁護なさるのがスジというものでは有りませんか?齋藤医学部長が海外出張中、教授会での吊るし上げ。そして手術妨害にも関わらず、手術は未だに奇跡の成功率100%です。
手術の大変さは齋藤医学部長も良くご存知のハズですし、この数字が偉業と呼ぶに相応しいかも医学部長ならお分かりのハズです。医局のトラブルは佐々木前教授が退官なさった後は齋藤医学部長が責任を持って対処された方が医局も安定したと愚考致します」
齋藤医学部長は最初こそ驚いた顔で祐樹を見ていたが。途中からは茫洋とした表情で紫煙の行方を見詰めているだけだった。
たとえ最高権力者を怒らせてしまっても、彼がどれ程の心労を背負ってここまで頑張って来たのかを論ぜずにはいられなかった。それが祐樹の左遷で終っても構わないとまで思い詰めた。身に着けている彼のシャツから残り香が切なく薫る。
齋藤医学部長の目が祐樹を射るようだ。
次は怒りの発露かと身構えた。が、覆水盆に帰らずだ。彼の身代わりになって言わせて貰うことはキチンと言おうと思った。心なしかシャツに染み込んだ彼の香りが強くなったような気がした。
「いやぁ、黒木准教授といい、君といい、いい部下を持っているようだな、香川教授は。いや、結構、結構」
イキナリの笑い声だった。少し心の構えを解きかけたが、豪放磊落に笑っているクセに目は笑っていない。食えない人だと思った。まぁ、そうでなければこんな地位まで上り詰めないだろうが。
「君も知っての通り、3人は……ともう1人、ナースも当病院を即刻去る。そして佐々木前教授の病院で一から鍛えなおして貰う積りだ」
そんなことを一介の研修医に言うためだけに呼びつける必要はないだろう。もうこうなったら自棄だ。最愛のかつての憔悴した表情が脳裏に浮かぶ。
「医学部長もご存知でいらっしゃると愚考致しますが、ウワサは早いものでして……。次回の教授会では他の教授が我が医局のことを徹底究明すると伺いましたが?」
「医局のことは医局で片付けるのが暗黙の了解だ。そちらの件は医学部長判断で議題からは外した。余所の科が口を挟むべきことではあるまい」
安堵の余り溜め息が出た。それを鋭く見据えた齋藤医学部長がおもむろに口を開いた。瞳は白刃の鋭さだった。
「山本君が、君と香川教授がただならぬ関係だと言い放っていた。それは本当かね?」
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