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第十五章 第23話
彼との「ただならぬ関係」を医学部長に詰問されるのも祐樹の想定内だった。
先ほども熱く滾った感情の上部で理性が働いていたのも事実だ。齋藤医学部長に言ったことは本音だったが。
言っていいことと悪いことの区別は祐樹なりに付けていた。祐樹の計算が外れていたら、それは祐樹の責任だ。着任早々の香川教授の前で彼の意見に反対した時は左遷も辞さずだったが、今となっては彼と離れるつもりは金輪際ない。
教授と医学部長兼病院長では当然ながら視界が全く異なる。最愛の彼はそんなことはしないと確信を持って言えるが。内科の今居教授のように教授職にいる人間が――内田講師のように人望も腕も申し分のない良い医師ではあっても――気に入らないと系列病院に飛ばすという事実は有る。だがその上部に君臨する齋藤医学部長ともなると視野は大学病院のみならず、管轄省庁である厚生労働省と文部科学省の意向までフォローしなければならない。
特に祐樹はまだ研修医だ。度重なる医療制度改革によって大学病院に残る研修医の数は年々減っている。そのことを重く受け止めている厚労省は研修医の歩留まり率のチェックに余念がない。
祐樹の同級生で医師国家試験を同じ年度に合格した友達もキツい大学病院よりも民間の病院での研修を望み去っていった。大学病院なら研修医の身分はヒエラルキー的に下位の下位だ。救急救命室の阿部師長のようなベテランナースのみならず、中堅ナースから指示があったら従わなければならない。それが民間病院だと「先生」と立てて貰える。なので、医師国家試験に合格した人間は大学病院を嫌う傾向にある。
祐樹も唯一の香川外科の研修医に結果的になっていた。祐樹としては心臓外科の専門医に成りたいが故の選択だったが。同じゼミの同級生は殆どが医師の息子で、祐樹のような庶民とはプライドの高さが全く異なる。先輩医師だけでなくナースにまで怒鳴られる大学病院での研修医を敬遠して去って行った。
この大学病院の研修医の人数に祐樹は当然カウントされる。となると左遷人事でどこかの病院に飛ばされたら、この大学の研修医の数が1人減る。厚労省の歩留まり率の計算ではマイナスだ。となるとそれは齋藤医学部長の責任になるわけで、多少暴言を吐いても齋藤医学部長は怒りの余りの左遷人事を行わない方に賭けていた。
正式な医師となるとその厚労省のカウントからは外れる。教授が気に入らない医師を左遷しても厚労省の査定には引っかからない。山本センセを始め今回の手術妨害の当事者達を齋藤医学部長が事も無げに切ったのはそういう内部事情も存在しているのだろうな……と思う。もちろん患者さんの命を預かる医師として絶対にしてはならないことをしたというのが最大の事情だっただろうが。
「ただならぬ関係」というのは多分齋藤医学部長の婉曲表現で、山本センセはもっと突っ込んだ発言をしたに違いない。ただ、祐樹が最愛の彼を悲しませてまでも必死で隠しとおした二人の本当の関係を山本センセが握っている可能性はほぼないだろう。握っていたら、辞表を出す前に香川教授に脅しをかけるくらいの悪あがきはするだろう。
大学病院に勤務する人間は国家公務員に準ずる。同性愛者は明確にクビという規定は国家公務員法にはなかったが「その他、国家公務員にあるまじき行為をしたものは処分の対象になる」という文言が有ったハズだ。
それに祐樹は別にカミング・アウトしても良かったが、それにはやはり最愛の彼の意向を確かめてからという譲歩が付く。彼は祐樹の求愛を受けてくれた。個人的にはとても嬉しかったけれども、公的な立場は自ずと異なるだろう。
恋人同士にはなったが、2人の関係を公にしていいものかという話はしたことがない。晴れて正式な恋人同士になったのは昨日だ。そんな込み入った話をしている時間は無かった。
彼の意向を聞くまでは、しらばっくれる方が無難だろう。柏木先生から「齋藤医学部長の呼び出しが有った」と言われてからそう決意して医学部長の部屋に来ていた。
「ただならぬ関係とはどういう関係ですか?」
全く心当たりがないという表情と口調を作った。齋藤医学部長も仮面が外れてホトホト困惑した表情を覗かせる。
「君と香川教授が……特別に親しい……それも不自然に親密な関係だというものだった」
奥歯に物が挟まったような言い方に、山本センセはもっと直裁に「肉体関係もある」と証拠もなしに捨て台詞を言い放ったのだろうな……と判断する。が、証拠は一切ないと断言出来る。
「親しいですよ?学生時代佐々木ゼミの先輩・後輩の仲でした。その後教授がアメリカに渡られたので、音信は途絶えましたが。その後、教授として凱旋帰国なさった時に、彼の医局改革に反対したのも、今の大学病院の実態をご存知ないのでは?という忠告のつもりでした。
尊敬すべき先輩として医局のことをお教えするのがスジだと判断しました。そして教授も多分後輩として私を覚えていらっしゃると確信しておりましたので」
齋藤医学部長は「なるほど」という顔をしたが、まだ目は鋭い。
「では、香川教授がバーで酔った時に田中君が迎えに来て二人で何処かへ消えたというのは?」
そのエピソードまでご存知ならば、山本センセも単なる捨て台詞ではなくレポートにして提出したのかも知れないな……と思う。
「あのバーは学生時代からの行きつけで……2人で良く行きました。アットホームなバーですので、店員が私の携帯番号も知っています。そして、今ではポジションが異なっていることも。
上司が酔っているので迎えに来て欲しいと連絡が有って駆けつけました。二日酔いの執刀医――といっても香川教授のメスの冴えはその程度で影響されないとは思いましたが――に執刀される患者さんのことを考えると酒量も過ごさない方が良いと判断しまして。急性アルコール中毒の対処法を心得ている私が付いていた方が教授に万が一のことが有った時にも適切に対応出来ると判断して付き添いましたが、それが何か?」
得意のポーカーフェイスで言い募る。齋藤医学部長も目の光が次第に和らいでくる。
「なるほど……君の部屋に香川教授が居候していたのも同じ理由かね?」
「ええ、手術妨害の件は、同じ手術室に居た者、そして心臓外科医としての知識と経験が有る医師にしか分かりません。柏木先生も香川教授と同期ですが、同期でポジションが雲泥の差の柏木先生よりも、後輩でしかも研修医の私の方がまだ話しやすいと判断なさったのでしょう……異性ならともかく、同性の部屋に泊まるのなら何ら問題はないと判断されたのでは?
それに手術妨害は酷いものでした。その愚痴は教授のポジションで軽々しく口に出しては医局運営にも差し障りが有ります。ですが研修医の私なら医局での発言権など有りません。昔のよしみでそういう愚痴もお聞きしました。その上私は香川外科の手術スタッフです。教授の手術が円滑に行えるように周囲の環境を整えるのも業務の一環として色々と動きました。それに何か問題でも?」
齋藤医学部長は新しい煙草にダンヒルのライターで火を点けて、またぼんやりと紫煙の行方に思いを巡らしているような表情に変わった。
「内科の今居教授が次回の教授会で問題にしようとしていた香川教授の医局内でのトラブルは医学部長権限で取り消した。それに、香川教授の手技を慕って東京からも患者さんが押しかけて来るようにもなった。病院経営も一般企業と同じだ。患者さんが多いほど病院は潤う。
その点を全く顧慮しない教授が多い中で香川教授は病院の収益まで見込んで――まあ、私としては特診患者を最優先して欲しかったのだがね――最善の医療を提供している。得難い人材だ。その補助を自発的に買って出た田中君の思惑がどんな感情からかは不問に付す。これからも香川教授の補佐をしてくれたまえ」
「どんな感情」という点が気に掛かったが。もしかしたらこの食えない齋藤医学部長は何もかもお見通しなのかもしれない。が、祐樹としてはそれはどうでもいい。吊るし上げ教授会も回避出来たようだし、先ほどの祐樹の暴言も医学部長の逆鱗には触れなかったようだ。今回はそれで良しとしよう。医学部長の香川教授の評価も上々のようだったので。
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