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第十五章 第24章

「もちろん、上司の補佐は部下の務めです。私も『尊敬する』香川教授のために精一杯のことは致します。しかし、明敏な医学部長はすでにお気づきだと拝察致しますが……。香川教授は大学病院のヒエラルキー社会で上に上り詰めて行くという大学病院に勤務している普通の医師のメンタリティはお持ちでは有りません」  祐樹の肩にどっしりとした疲労が覆っているのを感じた。それはそうだろう。一介の研修医がこの病院の最高権力者と対等に話しをしているのだ。何だか時代劇で見たことの有る「直訴」状を持った農民が、殿様に面会をしている気分だ。  とにかく最愛の彼を守るため必死に頭を絞った。今のところ「吉」と出ていそうな気はするが、権謀術数が渦を巻いている大学病院でトップに君臨する齋藤病院長は筋金入りのマキャベリストかもしれない。そんな人間に対してこちらも言い分を呑ませなければならない。愛する彼に有利になるように。 「そうだな……それは何となく感じていたよ……」  また齋藤医学長の腹黒さ……もとい懐の深さにウンザリする。医学部長室に最愛の彼や当事者と黒木准教授を呼び出した時の会話は携帯越しに聞いている。彼ははっきりと「東京の病院に行く」とまで言い切っていたというのに……。「何となく感じる」というレベルではないのは明白だった。それをしらばっくれているのだから、相当な面の皮の厚さだ。紫煙の行方をぼんやりと目で追いながら齋藤医学部長は言う。ジツは紫煙を追うフリをして考えを纏めているのかもしれないな……と思う。 「医局のトラブルは収束しました。後は香川教授がこの病院で、彼の天才的なメス捌きに余計な横槍が入って来ないように教授会などで睨みを利かせて戴きたいのです」  不意に齋藤病院長の目が祐樹を刺し貫く。逆鱗に触れてしまったか…と背筋に汗が伝うことを自覚する。病院長は、悠然とした動作でソファーから立ち上がり、執務机の上から書類ファイルを持って戻って来た。 「これを見たまえ」  開いたページの数字を目で追う。 「外科……特に香川外科の稼ぎが素晴らしいのは分かるな?」  前年比250%という数字が書かれていた。 「はい。ただ他の科が……」 「そうだ……君は口が堅そうだから。ここだけの話しだが……今居教授の内科などは……採算度外視の放漫経営を続けている。構造的に赤字を抱える救急救命室や産婦人科なら仕方がないことなのだが。  だから、この両教授のどちらを切り捨てないといけない場合は……言わずとも分かるだろう?」  要するに採算を充分に計算している香川教授の方が今居教授よりはいい部下だと言いたいのだろう。  頷くと、齋藤医学部長は底の知れない笑顔を見せる。香川教授が今まで通りの成果を見せれば守ってくれるようだったが。 「ふうむ……君もこの病院で出世をしそうだな……今も香川教授の懐刀とまで呼ばれているそうではないか。私人としての関係は私の関知するところではない。公人として香川教授の補佐を宜しく頼む」  何だかお釈迦様の掌の上で踊らされている孫悟空の気分だ。そんなウワサまでご存知だとは。侮れない人だ。もしかしたら2人の真実の関係もお見通しなのかもしれないなと思う。が、重大なエラーを起こさない限りは、お目こぼしがあるような気がする。 「話はそれだけだ。くれぐれも香川教授を宜しく頼む」  チラリと笑顔を向けられるが、その笑顔ですら本当に笑っているのかそうでないのかが分からない。こちらは本心を悟られないようにずっとポーカーフェイスだ。 「承りました」  失礼のないように細心の注意を払って医学部長室を出た。齋藤医学部長との一対一の面会は予想以上の重圧だった。廊下に座り込みたい気分だったがさっきの美人秘書の机もある。  エレベーターに乗り込むと、発作的に彼の執務室のあるフロアのボタンを押してしまった。今すぐに彼の顔が見たいと思った。水に飢えたものがオアシスを求めるくらい切実に。  医学部長室に行くという件で祐樹の仕事は全て柏木先生が肩代わりしてくれている。医局へ帰るのがもう少し遅れても大丈夫だろう。そう判断すると、無人のエレベーターの中で大きく息を吐いた。そういえば医学部長室では無意識に息を殺していたような気がする。相手の威厳に押されて。  エレベーターが教授階に着くと、表情を引き締める。誰と行き会うか分かったものではないので。  相変わらず人の気配のない廊下だったが、先ほどのような重圧感がないのが救いだ。それにこの階には最愛の彼が居る。そう思うとツイ足の運びも速くなってしまう。  彼の部屋をノックし名前を告げる。 「どうぞ」  涼しげな声だったが、訝しさも混じっている。それはそうだろう。こんなイレギュラーな時間に訪れたこともないし、夜は杉田弁護士の所で落ち合う手筈になっている。祐樹が訪ねる必然性は全くないのだから。 「失礼します」  扉を開けると最愛の彼がふんわりと微笑んでいた。が、祐樹の顔を見て心配そうに眉を顰め、優雅でしなやかな動作で立ち上がってこちらへ歩み寄って来てくれた。  祐樹も部屋の中央に足を進めた。吐息が触れる距離まで近寄ると、彼は心配そうに囁く。 「何があった?とても疲れた顔をしている……」 「今から申し上げますが、秘書は呼ばないで下さい」  その囁きが普段の祐樹らしくなかったのか、彼の眉はさらに深刻そうに顰められ足早に秘書エリアに行き、何やら指示をしている。応接セットのソファーに座り込みたい気持ちだったが、それよりももっと祐樹が安らげる場所がある。彼の体温と香りを感じられればそれでいいと。  黙って立っていると、彼は白皙の顔に憂色を浮かべて近寄ってきた。 「秘書は使いに出した。どうした?」  黙って抱き締めた。彼の細いが肩幅はある肩に頭を預ける。彼のシャツからは彼の香りと祐樹の香りが混合された懐かしい匂いが仄かに薫る。背中に両手を回して力いっぱい抱き締めた。縋るものを見つけた、溺れている人間のように。  彼は祐樹のしたいようにさせてくれている。祐樹の後ろ髪を彼のしなやかな手が梳く。普段の様子と余りにも異なっていたからか、彼は祐樹が話しだすのを待ってくれているようだった。彼の香りと体温に包まれて、先ほどまで肩に乗っていた重圧感が徐々に薄らいでいく。 「実は、先ほど斉藤医学部長に呼ばれました。そして今まで医学部長室に居ました」  背中を伝う彼の指が止まった。 「何を言われた……の……だ?」  彼の口調も沈痛さを宿す。背中に回した手を緩めて優しく撫でる。 「結果的には何も心配することはない……と分かったのですが……」 「しかし…祐樹のそんな顔は初めて見た。私のことで何か?」  耳に心地よい小さな声だが、憂いの色がますます濃くなっている。肩口に置いていた顔を上げると彼の澄んだ瞳を凝視した。 「いえ、大丈夫です。貴方の温もりで癒されました。まずは朗報です。今居教授が教授会の問題にしようとしていたウチの医局の件は、議題からは外されました」  彼の瞳は心痛を余すところなく表現していて。 「医学部長がその件だけで祐樹を呼ぶのはおかしい。他に何を言われた?」 「山本センセが辞表を出す腹いせに、私たちの関係をほのめかしたようです」  彼の瞳は微塵も揺るがなかった。 「その件に対して医学部長からの質問が有ったのだな?祐樹は何と?」 「本当のことをお話ししても良かったのですが……それは貴方の同意を得てからと思いまして……学生時代からの知り合いであることや、手術妨害の時に私の家に来られたことなどを申し上げました」  彼の瞳は祐樹を気遣う色に満ちていた。多分彼は自分の保身などは考えていないのだろう。 「そう……か。祐樹がそう判断したならそれでいい。私としては公になろうが全く構わないと思っているが」 「いえ、貴方はこの病院に必要な方です。スキャンダルはご法度です。でも、大丈夫、私が守りますから。貴方が傍に居て下さるなら、私はもっと強くなれます」  彼の顔が祐樹の胸に押し付けられた。 「ああ……私も祐樹が居たから……ここに居る。これからも居てくれるととても嬉しい」  返事の代わりに力の限り抱き締めた。厳かな空気が部屋を満たしていた。

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