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第十六章 第1話

「いろいろ、有り難う……。祐樹が居たから……私はここに居る」  彼の声は複雑ではあるが最も目立つのは明るい色彩のような気がした。顔は祐樹の胸元に押し付けられて見えないが。 「いえ、貴方がこの病院にいらしてから、私こそ様々な面で成長したと感じます」  彼の肩に顔を乗せ、彼の香りをうっとりと感じていた。細い腰に腕を回した。 「祐樹が私の件でどこかの病院に左遷される可能性はないのだな?」  彼の声が愁いの色を帯びた。 「それはないです。病院長が左遷を考えないように言葉を選んで言うべきことは言いました。貴方が教授会で吊るし上げられないように……もっと手術だけのことを考えられるように齋藤病院長にも進言を……」  執務室は初夏の夕日に照らされている。残照に照らされた彼の顔はさぞかし綺麗だろうな…と思う。 「齋藤病院長は、『香川教授の補佐を頼む』と仰ってました……よ。だから大丈夫です」  祐樹でさえ気付いたのだから明敏な彼はこの言葉の意味に気付いただろう。教授職はこのままで、祐樹もこの病院に勤務することを病院長が許可したことを。 「流石に、この病院の最高権力者との面会は疲れました。けれども、貴方の顔を見て、そして貴方の体温を直に感じてとても癒されました。キスをして下さったらもっと元気になります、きっと」  男性にしては細身のウエストを抱いた手はそのままに、肩に預けていた顔を上げる。  彼も祐樹の胸元から顔を上げ、祐樹を見詰めた。彼の瞳は様々な色を宿していた。喜色もあれば憂色もあった。が、一番大きな感情は慕情だろうと思いたい。  彼の澄んだ瞳が祐樹の顔に近付いて来る。祐樹が瞳だけで笑うと彼も薄紅色の頬の色が僅かに濃くなる。雄弁な瞳も祐樹の顔だけを愛しげに凝視していた。  祐樹が口付けをしやすいように顔を下に向けると、彼の薄い紅色の唇が綻んだ。溜め息の発露のようなキスをする。  彼は祐樹の肩に縋るように手を置いている。唇の表面だけを合わせる初々しいキスをした。そっと薄目を開けて彼の表情を盗み見た。初夏の爽やかな光が彼の端整な顔を彩っている。もっと激しいキスをしたいという欲求もないことはなかったが、この部屋の雰囲気にはそぐわないような気がした。  角度を変えて唇を啄ばむ。お互いの呼気が唇の表面を濡らしていく。それだけで充分だった。五月の残照が彼の顔に照り映えてとても綺麗だった。  彼の目蓋が紅く染まっているのを慕わしげに見つめ、僅かに唇を離して彼の頭に手を置く。本当は髪の毛を梳きたかったのだが、ムースで固めているのでそれは無理だ。 「有り難うございます。もう元気になりました」  彼の瞳が5月の太陽に負けないほど輝いた。 「そうか……それは良かった。有り難う。……ところで、祐樹が心配していた例のアレは大丈夫なのか?」  にわかに心配そうに声を潜めた。「例のアレ」とは盗聴器のことだろう。 「医学部長に直訴する前だと有効でしょうが、暴露した後に証拠が出て来ても間抜けなだけですよ。この部屋に仕掛けてあったとしても取り外した後でしょう」 「そうか……それなら良かった」  彼が心から安堵した笑みを零す。全ての愁いがなくなった彼の笑顔は、晴れやかでいて爽やかな色香を纏っている。 「私は、かねてからの約束通り杉田弁護士事務所に行くが、祐樹は?」  視線だけ動かして壁に掛かっている時計を確かめている。祐樹の腕の中から抜け出ることも出来たのに、彼はそうはしなかった。 「そうですね。ご一緒しましょうか?」  そう言うと彼の笑みは深みを増す。 「ただ、柏木先生が心配して待っていらっしゃると思うのです。何しろ医学部長の電話を取ったのが先生でしたので。私の業務も肩代わりして下さいましたし。  あ、柏木先生は、医学部長に私達の関係は学部生の頃から先輩・後輩の仲だったと証言して下さいました」 「そうか……多分、私が学部生の頃に祐樹を避けていたのを……当時は分からなかったとは思うが、今になって思い出したのだろう…な。それでそんな方便を。  今後の医局運営は、長岡先生を中心とするバック・ヤードと黒木准教授や柏木先生を中心とする手術スタッフの二本立てで行うことに決めてある。手術室の清瀬師長も責任を持って道具出しを手伝ってくれるそうだ」  着任後、やっと思い通りの医局人事が出来るようになった彼の顔はとても嬉しそうで、見ている祐樹までも幸せになる。 「医局に戻って、柏木先生にお礼を言って着替えてまた参ります。一緒に帰ってももう大丈夫ですから」 「ああ、待っている」  彼の顔が近付き、一瞬だけ唇が掠めた。  医局へ戻ると、柏木先生が心ここに有らずといった風情でパソコンに向き合っている。といっても彼の手は止まったままだったが。 「ただ今、医学部長室から無事生還致しました」  そう声を掛けると、祐樹の顔を確かめるように見てから微笑んだ。 「その感じでは別に何事もなかったのだな?」 「ええ、大丈夫です。やはり医局のゴタゴタと……香川教授の件でしたが……」 「ふーん……香川教授は田中先生のことをとても特別視していたから……学生時代から……な。山本センセも目の付け所は悪くなかったわけだ……」  意味ありげに言う柏木先生の言葉をこれ以上聞くのが何となく怖い。慌てて次の話題に移った。 「畑中医局長と木村講師、そして山本助手が辞表を提出されました。手術室のトラブル絡みと言えば柏木先生にはお分かりかと。それに伴い大掛かりな医局人事が有ります。柏木先生には朗報かと……」  柏木先生は意味深な笑みを浮かべた。 「一番、動いた田中先生が研修医だったのは残念だな……。論功行賞からすれば、田中先生こそ一番貢献度が高いハズだ。もし正式な医師であればと……」 「いえ、私はこれで充分です。それに研修医だからこそ自由に動けたという点も有りますし……、先生もやっとご活躍の場所が広がって良かったですね」 「ああ、そうだな……これで医局内の空気が浮ついたものにならないだけでも嬉しいよ。あれにはウンザリしていたのだ……」  心底嫌そうに顔を顰める柏木先生だったが、言いたいことは何となく分かる。手術に向かうために精神統一している後ろで医師限定の御見合いパーティの戦果を言い合っている山本センセたちの浮かれた雰囲気を祐樹よりも真面目な柏木先生は嫌っていたに違いない。 「私はこれで上がりですが、先生は?」 「田中先生の代わりに救急救命室での勤務を受けた。医学部長兼病院長と対峙してからのあちらの勤務は辛いだろうと思ってな。その顔だと大丈夫そうだ……何なら代わってやるが?」  柏木先生の顔は言葉とは裏腹に早く帰れと言っている。彼も救急救命室での勤務が手技向上のいい機会だと分かっているのだろう。 「いえ、本日は先生にお任せ致します。では、お先に失礼します」 「ああ、お疲れ……良かったな。本当に」  柏木先生も途中までは山本センセの陰謀に加担しないまでも、黙認していたわけで……彼なりに葛藤があったのだろう。今は晴れ晴れとした顔をしていた。  白衣を脱いで薄いジャケットを羽織る。そういえば彼のシャツを着たままだった。もう残り香はしないが、それでも彼のものだと思うととても愛しい。当然替えのワイシャツもロッカーに入っていたが、着替える気にはなれなかった。  先ほどとは全く異なり晴れやかな気分で彼のフロアのボタンを押す。秘書は業務時間が終っている。  ノックをして彼の部屋に入る。帰り支度をすっかり終らせていた彼のシャツを見ると祐樹のシャツのままだった。 「着ていて下さったのです……ね?」  彼は艶やかな笑みを浮かべた。 「祐樹の……だからな。杉田弁護士にお礼を言って……それからウチに来てくれるのだろう?ただ、散らかっているが……」 「ええ、そのつもりです。行きましょうか?」  杉田弁護士事務所に着くと、いつもの面会室に通された。祐樹が予測したように盗聴器の心配はなかったらしい。  杉田弁護士が入室と同時に感嘆したように言った。 「香川教授……さらに、雰囲気が変わったようだね……フライベートで良いことが有ったと予想するが……教授の恋人は大変だろうな……ライバルがますます増えるだろうから」  ご愁傷様と言いたげな視線で祐樹を見た。祐樹の心に暗雲が立ち込める。内心危惧していただけに、他人から言われるとさらに不安を煽る。

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