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第十六章 第2話
開口一番の挨拶がそれか……とツイ辛辣な口調で言い返したくなったが、今回の殊勲者は間違いなく杉田弁護士だ。彼が多少ではあるが厳密に言えば法律に触れる情報開示の手続きをしてくれ、その後、祐樹が尾行に気づくや否や盗聴器のチェックまでしてくれた。祐樹だけなら盗聴器――そんなものが存在するのはテレビの中だけだと思っていた――の存在すら気づくことなく、山本センセに二人の関係が伝わったに違いない。斎藤医学部長もおぼろげながら最愛の彼と祐樹の真実の関係を気づいているような気がするが表沙汰にならない限りは静観の構えだろう。
「その節は本当に有難うございました」
香川教授が座っていた来客用のソファーから立ち上がって深く頭を下げる。アメリカ時代が長かった人なのに、こういうところは日本人よりも礼儀正しい。慌てて祐樹も倣う。
「問題は全て解決したかね?」
杉田弁護士は二人に座るように勧めた。そこへ女性事務員がコーヒーセットを持って入ってくる。杉田弁護士といい、香川教授といい秘書役の女性の年齢には拘りがないようだ。斎藤医学部長が美貌の秘書を使っていたのとは好対照だ。もしかして、祐樹のような嗜好を持つ男性は女性に対して職業的に有能かという一点だけにしか目が行かないのかもしれないな……っと思う。
「はい、お陰様でこれからは気兼ねなく手術が出来そうです」
横に座った彼は心から晴れ晴れとした微笑で答えている。
「あのう……途中からなし崩し的にお願いした形になっている盗聴器対策の件なのですが、お代金は?」
盗聴器の件は彼も知っているので堂々と聞くことが出来る。彼の前で今まで秘密にしてきたことを話せるのは単純に嬉しい。重い荷物を下したような気分になる。
「代金?ああ、田中先生が困っていた興信所の件とそれに伴う盗聴器や尾行か……。あれは別に訴状を書いたわけでもないし、友達にちょっと頼んだだけだから営業の内には入らない」
「では、無料で良いと?」
そんなに高給取りではない祐樹には有難い話だったが。嬉しさの余り口調が軽やかになるのを止められない。
「しかし、プロの先生に折衝をお願いしたのですから……それなりの報酬は……」
あくまでも几帳面な祐樹の恋人は怜悧な言葉を紡ぐ。
「プロと言っても…そこにいる田中先生は飲み友達でもある。それに香川教授……手術室で患者さんを治療したら――まぁ君たちの職種だから直接の金銭の授与はないだろうが――会計で支払わねばならないのは分かっている。しかし、酒場で知っている人が怪我をして応急処置をした場合、お金は取るかね?」
「いえ、頂きません。こちらが善意でしたことですし」
「私もそうだよ。田中先生を尾行していた興信所が知り合いの弁護士経由で止めることが出来る相手だった。だからそんなに気に病むことはない。それにこの世界も持ちつ持たれつだ。あちらにも貸しはあるので大丈夫だよ」
彼を説得している間に杉田弁護士は興味深そうなまた何かを探る目で見つめていた。
「で、仕事以外でも良いことが有ったような……何と表現したらいいのだろう?とても清々しそうな、嬉しそうな顔をしている」
彼は祐樹にちらりと視線を走らせた。言ってもいいかと彼の雄弁な瞳が語っている。頷きで返す。
「はい。付き合うことになりました。やっと」
語尾が少し震えている。
「それはお目出度い……な。田中先生は……グレイスで知り合って5年以上になるが、本気で付き合った人間は居ないだろう?」
そう突っ込まれて、飲みかけていたコーヒーに噎せた。
彼がきちんとプレスされた白いハンカチを差し出してくれる。複雑なニュアンスを帯びた瞳の光で。
祐樹の過去は杉田弁護士だけでなく最愛の彼も知っているわけで今更取り繕う必要性は特に感じなかったのだが。
「私の過去の男性遍歴の話は、杉田弁護士が一番ご存知では?横で楽しそうに御覧になっていたでしょう」
白いハンカチを汚すに忍びなくて、コーヒーに添えられていた紙で黒く染まった指を拭きながら言った。折角2人で事務所を訪問したのに、ただでさえ心配性のこの人の前であまり過去の話はして欲しくない。今更祐樹の過去に嫉妬しそうな感じの彼ではなさそうだが。
「ああ、それは単に言い寄る人間は拒まなかっただけだろう?知る限りでは田中君が大好きになって付き合ったという話は寡聞にして聞いたことはないな」
「ああ、そういえばそうですね」
杉田弁護士の意図が何となく見えてきた。隣の彼に是非聞かせようとしているのだろうと。
「しかも、付き合っていても勤務先も教えずに、会社員だとずっと騙していたという、そういう田中君なのだが……。勤務先で付き合う人間が出来るとは全く予想外だった。しかも上司とよもやそういう関係になるとは思わなかった……な。上司といってもとても魅力的だがね……」
黙って杉田弁護士の話を聞いていた彼は心の底から不思議そうに呟いた。
「魅力なんて全くないです……が?確かに形式上上司ではありますが」
2人は同時に笑ってしまう。2人が笑い出すと相乗効果でなかなか笑いは止まらない。イイ年をした男が思いっきり素面で笑える場面というのも余りない。2人が笑っている理由について全く心当たりがないと言いたげに見詰めているのも笑いを誘う一因だ。
ひとしきり笑った後で、杉田弁護士は「これだから理系人間は」と呟いたのが印象的だった。
彼の自覚のなさについては後々、やきもきさせられるだろうな……と思う。
「最近、誰かに夕食を誘われたなんてことはありませんよね?」
杉田弁護士事務所を辞して、初夏の――もう直ぐ京都は湿度の高い一年で最も過ごしにくい時期になる――爽やかな夜の街を散歩がてら歩いた。
「そういえば……産婦人科の中山准教授に最新の術式をレクチャーしてくれと教授室に電話があった……な」
産婦人科と聞いて嫌な予感がした。中山准教授……っと、記憶の底から人物像を掘り起こす。
「女性ですよね?産婦人科の最年少の准教授と騒がれたあの……」
「ああ、女性だが?後は知らない」
既婚者と聞いたことはない。といっても他科の情報が入って来ることは余りない。それならナースに聞いた方がゴシップも含めて教えてくれるだろう。確か30代前半の女性だ。准教授クラスで独身だと一般の医師もなかなか声を掛けづらいし、彼女に玉の輿結婚願望があるとしたら、香川教授は格好の結婚相手だ。少し年下だが。
「その准教授が何のレクチャーですか?」
「ウチでは既に侵襲口――メスで切り開いた傷口――を絹糸ではなく医療用の接着剤で固めているだろう?例外を除いて。その技術をカイザーにも応用したいので是非とも留意点を教えて欲しいと」
カイザーというのは帝王切開のことだ。
「縦割りの医療には疑問を感じますが、食事をしながらでなくても出来る話では?」
「一応はそうなのだが……やはり他科の教えを請うとなると大学内では難しいので是非外で話したいと」
「そう……ですか……」
産婦人科は深刻な人手不足に悩まされている。准教授のポストが回ってきたとしても、助手の仕事や医局長の仕事も兼ねている人が多いと聞いている。ジツは他科に流出する医師が一番多いという噂の科だ。女性なら……結婚、年下ではあるものの、心臓外科教授夫人というのは魅力的に映るのではないかと。早速、明日手術室の清瀬師長に豪華なお弁当でも持って聞いてみようと決意した。阿部師長なら弁当はナシだが、折角貸しは返し終わったのに、また貸しとして救急救命室に一晩詰めることにも成りかねない。手術室ならウワサは飛んでいるだろう。
彼は業務の一環として捉えているのか、淡々とした表情で答えている。
見覚えのあるマンションの前まで来て、彼はくすぐったそうな顔で祐樹に告げる。
「合鍵は、持っているのだろう?」
「ええ、もちろんです」
「祐樹が開けてくれ……。あ、それと……」
「何ですか?」
仕事の時と同じ真剣な表情をする彼の瞳を覗きこむ。幸いマンションの門は煌々と灯りが点いていたので。
「祐樹を入れてしまえば…手、1人では住めなくなる……。このマンションもこの街も」
低く呟く声が僅かに震えていた。
「ええ、決意は変わりません。これからずっと一緒に居ましょう。貴方が望む限り」
力強い声で耳元に囁く。彼は何かに耐えるように上を向いた。抱き寄せたかったが、その代わりに合鍵を教えて貰った通りに操作してマンションの扉を開ける。右手を差し出して彼を招いた。極上の笑顔で彼は近付いて来る。その微笑みは祐樹の網膜だけでなく、心に、いや魂に沁み込むほど綺麗だった。脳裏にもはっきりと刻印される。それほど鮮やかで鮮烈な魅力を放つ笑みだった。
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