364 / 403

第十六章 第3話

 彼の部屋に入るということは、彼の人生の一部に属すること……そう決意してももはや迷いはなかった。充分過ぎる程彼に惹かれていたので。  マンションの中はスタッフがいる静寂に支配された不思議な空間だった。ホテルのように受付があり、慣れた様子で彼が帰宅の挨拶をしている。そして祐樹の紹介も。ポーカーフェイスを装っているが、その表情の奥には面映さを宿しているのが分かる。 「これから、こちらにお世話になります。どうか宜しくお願い致します」  神妙に告げると彼も同じ表情を浮かべた。  マンションは受付の人間と警備員まで居る豪華なものだった。しかもホテルと同じようなエントランスの巨大なフラワーアレンジメントには圧倒された。 「帰国寸前はバタバタしていて……長岡先生にマンションの手配までお願いしたら京都ではここが一番良いということになってしまって……」  そういえば杉田弁護士もこのマンションならセキュリティは完璧だと言っていたのが納得出来る。祐樹のマンションとは雲泥の差の人数だった。祐樹の部屋なら盗聴器を仕掛けることは簡単だろうが、この警備体制では難しいに違いない。 「いえ、安心しました。エントランスにも、そして共有スペースにも人が居るので、何か有ってもスグ対応してくれますよね……ウチの家とは大違いです。もちろん分譲なのですよね?」  エレベーターに乗り込んで何気なく聞いた。 「いや、賃貸だ。もちろん分譲も可能だったが。私自身何時までこの街に居るのか全く分からなかったので」 「それは……私絡みと自惚れても良いのですか?」  彼の答えは何となく分かっていたが、敢えて確認してしまった。重要なことだったので。 「そうだ……な。もし祐樹に今付き合っている人が居るとか……結婚の話が有るとかだったら多分私は適当な理由をこしらえてでもアメリカに行ってしまっただろう……」  澄んだ眼差しが真剣な光を放っている。その輝きに魅了される。 「そんな予定は金輪際有りません……よ?抱き締めてもいいです……か?」  エレベーターの中は無人だったが、杉田弁護士のお墨付きのマンションだ。何らかの警備システムが有るのではないかと予測される。  彼は切ない瞳で辛そうに告げた。 「このエレベーターの中には監視カメラが目立たないように設置されている……プライベートエリアは何をしようと干渉されないが、オープンエリアは監視が厳しい」 「そうだろうとは思っていました。実は杉田弁護士からもこのマンションならセキュリティも万全だろうと、盗聴器騒ぎの時に伺っていましたし」 「そうなのか?」 「ええ、京都では知る人ぞ知るマンションらしいですよ……」  全く揺れを感じさせないエレベーターの中にも生花が薫る。 「それは知らなかったな……適当に引っ越して来ただけだから……。ただ祐樹が私をマンションに帰らせたがったのは、盗聴器が心配なだけだったのか?」  雄弁な彼の瞳が不安定に揺れる。が、以前のような神経質な感じは受けない。 「ええ、それ以外に何がありますか?」 「そうか……それならいい……」  嫌な思考を取り除くかのように彼は小さな頭を振った。きっと色々なことを危惧していたのだろうな……と思う。これから挽回しなければと決意する。  エレベーターが音もなく彼の部屋の階に着いた。祐樹はテレビでしか見たことのない表札が二つしかないフロアだった。豪華なのは玄関で分かっていたが、これほどとは思わなかった。驚きを隠して彼を見遣る。 「散らかっているが……」  彼は祐樹の表情を別のものと勘違いをしたらしい。言い訳がましい表情だったが。彼の場合、それも嫌味にはならないところが祐樹の琴線に触れる。 「そちらの鍵で入って欲しい」  別にどちらでも……と思ったが、彼の手と声は幽かに震えている。恐らくは緊張のために。黙って鍵をかざす。  扉を開けると、生活の香りがない空間が広がっている。モデル・ルームのような部屋だった。 「どこが散らかっているんですか?とても綺麗に住んでいらっしゃるじゃないですか?」  部屋の豪華さに入ったらスグに抱き締めようとしたことをすっかり忘れてしまっていた。 「キッチンと、書斎が散らかっている」  彼も緊張しているらしくいくぶん固い声で告げる。多分、この人は恋人――というより他人だ――を部屋に入れたことがないのだなと、以前思ったことを想起する。  台所を覗いてみた。そこはとても整然としていてかつ清潔だ。祐樹のマンション全てが収まるほどの広さにはもう驚かない。 「とても綺麗じゃないですか?どこが散らかっているんです?」  彼が驚いたように目をみはる。 「ああ、そう言えば、ハウス・キーパーさんが入ってくれる日だった……。自宅を出る前は、朝食の食べ残しが色々と…」 「そういう人まで居るんですね。書斎はっと……」  食の細い彼のことだ。食べ残しと言ってもタカが知れているだろうにと可笑しくなる。書斎を覗いて絶句した。専門書や専門誌が整然と並べられている。どこが散らかっているというのだろう?本だけに占領された居心地の良さそうな空間だった。 「綺麗じゃないですか?貴方らしい書斎です……よ?」 「机の上の本が開いたままに……少し調べ物をしていたものだから」  彼の額を指で弾く。白皙の額はとても触り心地が良い。確かに机の上は二冊の英語の専門誌が開いたままになっていたが。 「普通はこういう状態を散らかっているとは表現しませんよ?ウチの方が酷い状態です」 「いや、あれはあれで居心地が良かったが……」 「そうですね……このマンションは余り生活していると言った感じがしませんね」 「使っているのは書斎と寝室……それにキッチンとバスルームだけだから」  部屋の広さに圧倒されて自然と声が低くなる。何だか無機質な感じを受ける部屋だった。豪華ではあるが。 「寝室は後ほど拝見させて頂きますね。この広さです。他にも部屋はあるのでしょう?」 「ああ、しかし私には必要のないものなので、空にしている。もし、祐樹が必要なら使ってくれても構わない」  セキュリティだけでなく、部屋の広さも売りらしい。確かに単身者が住むには大きすぎるマンションだ。仕事以外は浮世離れした長岡先生らしい選択ではあるが。 「そうですね。仕事の手が空いたら私の荷物を運んで来ます。そんなには有りませんが。で、食事はどうしましょう?」  2人とも夕食を済ませていない。散らかっていないと断言された彼はふんわりと微笑む。 「作っても良いが……確かそんなに冷蔵庫にも材料が入っていないので、今日のところは頼むとしようか?色々な料亭と提携している」  点滅している電話機をチラリと見てからその下にキチンと並べられたパンフレットを取り出した。 「電話……良いのですか?留守番電話が入っているようですが?」  子機を持ってキッチンに移動する彼の後ろから問いかけた。 「ああ、一件だけだ。それも医局から……祐樹が電話をくれた件だけだろう?多分」  この人は何でも良く覚えているなと今更ながらに感心をする。そういえば、医局から電話をした覚えがある。彼も混乱していたハズなのに、記憶力は相変わらず物凄い。  キッチンに落ち着くと彼は珍しく慌てた表情をした。 「どうしました?貴方にしては珍しい表情ですが」 「お茶を出すのをすっかり忘れていた。とても緊張していたから……」  平静に見えても彼も内心では違ったらしい。祐樹も最愛の彼の部屋を垣間見ることが出来てとてもドキドキしていたが。 「お茶くらいで…手淹れますね。それと……寝室に入ったら、多分抑えは効きません。それでも……良いですか?」  彼の耳元で囁くと、耳たぶが鮮やかな薄紅色に染まった。彼の肩から薫る祐樹と彼の匂いに幻惑される。 「ああ……ずっと居て、一緒に生活してくれるなら。全く構わない」  静かな声を出す彼の唇に祐樹は唇を重ねた。 「ええ、ずっと居ます。勤務以外は……」  彼の細い指先を恭しげに捧げ持って誓うように言った。

ともだちにシェアしよう!