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第十六章 第16話
本格的に寝ぼけていたベッドの上はともかく、職業柄目覚めは良いほうだ。
「今日は手術の後、昼食を食べに執務室に行っていいですか?」
味噌の配分と火加減が絶品なネギと豆腐の味噌汁を味わいつつ祐樹は聞いてみた。
「それは……ちょっと分からない……。黒木准教授と医局人事の件で調整する約束をしてしまっていて」
祐樹の食べっぷりを満足そうに眺めていた彼だったが。形の良い眉を曇らせて歯切れの悪い口調になる。
言外に一緒に居たいと思っているのが分かる表情に、祐樹は箸を置いて微笑んだ。
「仕方有りませんよ……教授職は重責ですから。プライベートで最優先して戴ければそれで十分です。それで……これからの職場での接し方なのですが、今までのように昼食を執務室で食べても構いませんか?一緒に帰るというのは流石にマズイでしょうね……。この辺は職場関係者も良く通りますし」
彼も箸を置いて真剣に答えた。
「帰宅したいのはやまやまなのだが、やはり人目に立つだろうし、あまり好ましいことではないと思う。祐樹も荷物の運び出しなどあるだろう?手伝ってやれなくて済まないが……ああ、空いている部屋で気に入ったのが有れば使ってくれ。私の帰宅が遅くなったら勝手にその辺の物を使っていいから」
彼は一度信頼すると全てを無造作に預けるのだなと思う。見ていてどうも危なっかしいところがある。祐樹が補佐をしなければ……という気にさせてくれる。
「ところで、中山准教授ってお幾つなんですか?いや、ご存知ないなら別に……」
ダメ元で質問してみる。箸を手に取る前に壁に掛かった時計をちらっと見て食事を続けている彼は全くの無表情で答えた。これなら昨日のスープを語っている時の方が熱心だ。
「詳しいことは知らないが…私より3学年上だそうだ。それ以上は知らない」
ストレートで入ったとしても――この学部は浪人率が異様に高いが――彼より3つ以上上というコトになる。そろそろ結婚そして妊娠を焦る気持ちも分からなくはない。
が、下位のポジションの医師など眼中にないと本人の前で言い切った、その性格が許せない。断るならもっと婉曲な方法がいくらでもあるハズなのだから。
「それより……土日にRホテルに行かないか?」
彼からのお誘いが嬉しくないわけはない。それに彼は先ほどの無関心な顔つきを一変させてとても楽しそうで、どことなく悪戯を企んだ子供の風情だ。
「ええ……喜んで……。それでは、私はそれまでにこのマンションに自分の居場所を作っておきます。でも、何故急に?」
「いや、私のクレジットカードで支払をしただろう?それでお得意様限定のスペシャルプランとやらが私の職場のメールに届いていた。いつもより広い部屋だそうだ」
ホテル業界はどこも厳しい。GWが過ぎて客室が余ったのかもしれないな……と。祐樹としてはいつものランクの部屋でも勿体ないくらいだが。金曜日に中山准教授とのデート(だと彼は認識していないだろうが)の次の日にホテルに誘ってくれるのが何だか嬉しい。
祐樹が考えているうちに先に食べ終えた彼は静かな動作ながらも後片付けをする。もちろん祐樹の綺麗に平らげた皿もとても自然で優雅な動きで下げられる。
「そろそろ、出勤しなくては……」
残念そうにポツリと呟く彼は前髪も下したままで。祐樹はまだ時間に余裕がある。
「このマンションの出入りは慎重にしますから……万が一にでも職場関係者には見つかりません、それは約束します」
ダイニングと洗面所を行ったり来たりしながら出勤の支度をしている。ついでに洗い物までこなす彼が気の毒になる。
「キッチンは私が責任を持って皿洗いしますから……」
「そうか……。有り難う。もうそろそろ時間だ。職場では、秘書経由の電話の時は公的な呼び出しで、携帯電話かメールの時は私的な呼び出しだ。っと、そろそろ行かなくては……あ、今日は生ゴミの日だ」
そう言って几帳面に結んだ市指定のビニールのゴミ袋を持ち出そうとする。
慌てて祐樹は立ち上がった。
「そんなことはしなくていいですよ。それよりもネクタイが曲がっています。少し直しますね」
そう言って玄関前で彼のネクタイを整えた。彼は朝でなかったら即押し倒したいと思える清楚なのに妖艶な笑みを零す。前髪は後ろに撫で付けられていて彼の聡明そうで白い額と、その微笑のギャップにクラリとする。
「出来ました。愛していますよ。行ってらっしゃい」
その枝垂桜の色香を放つ顔が近付いてきた。祐樹の目を間近で見て目を閉じる。触れ合うだけの接吻をしてから慌てて玄関のドアを開けた。
「行ってきます。また後で……」
彼は頬を薄紅色に染めて言った次の刹那、祐樹に背を向ける。かなり時間が押しているらしい。唇に残った彼の感触を惜しんで指でも確かめた。
彼のシトラス系の残り香が切ない。
さて、キッチンの片付けでもしようかと彼がさかんに往復していた場所に入って驚いた。食器はシンクには全くなく、水切り用のプラスチックのカゴに整然と全部収められている。昨晩使ったものも含めて。
仕事の手際が良いのはもちろん知っていたが、食事の手際の良さもそこいらの主婦とは比べ物にならないのではないだろうか?
祐樹も着替えを済ませて、ゴミ袋を手にマンションの部屋から出る。エントランス部分に居た管理人と思しき初老の男性にゴミ集積所の在り処を聞いてゴミ袋を投げ入れた。
その後エントランスホールの受付に行くと受付嬢――とでも言うのだろうか?――が、
「行ってらっしゃいませ、田中様」と頭を下げるのには閉口したが、フト疑問が湧く。どうして自分の名前を知っているのだろうか?だが、彼女達に聞くのは憚られる。
腕時計を見てまだ出勤時間に余裕があることを確かめる。彼が早くに出勤したのは医局人事の件だろうか?
彼の部屋では何となく吸えなかった煙草――別にとがめだてされているわけではないが――を吸うために阿部師長行きつけでもある喫茶店に入った。煙草とコーヒーを味わっている。ただ、そのコーヒーは今朝彼が淹れてくれた物よりも不味く感じた。
「あ、田中先生」
貫禄のあるナース姿にカーデガンを羽織った阿部師長が入って来た。目の下の隈が昨夜の激務を物語っている。
「そっちはラブラブだってね。こっちが夜も寝ないで仕事しているってのに」
ああ、杉田弁護士から聞いたなと思ったが口には出さずに曖昧に微笑む。
「夜勤明けですか?お疲れ様です。昨日は徹夜とお見受けしますが?」
煙草の煙を豪快に吐き出して疲れた声で言う。
「昨日だけじゃない、3日寝てない。でも今日は定時上がりだから……死んだように眠るわよ」
「デートはしないんですか?」
「デート……かな?彼は私の部屋に来て食事を作って待っているって。料理の匂いのする部屋に、もちろん電気も点いていて……ってのはとても幸せだと思える」
彼女はいつもの険しい顔ではなく仄かに女性らしさを感じる笑顔で微笑んだ。
「全く同感です」
「ふーん……」
彼女は意味ありげに唇を釣り上げて笑う。何だかチーズを前にした猫のようだ。それ以上追及して欲しくないので慌てて話題を変えた。
「いつぞや、師長の適切な判断で教授が学生の姿で病院を抜け出すことが出来ましたよね?あの時の画像、もしかしてお持ちではないですか?」
彼女は携帯で画像は撮らないだろうな……と思いつつも聞いてみた。
「持っているわよ。だって、私の同僚も欲しがっている人が沢山いるんだもの」
思わず声が上擦る。
「その画像、頂けませんか?」
「いいわよ、でもこれも貸しね」
彼の画像がまた一つ手に入る。これも永久保存版だなと密かに思った。
医局へ入ると、いつもとは違う雰囲気だった。それはそうだろう。医局長・講師・助手の3ポストが一挙に空くというのは祐樹が知る限りでは、空前絶後だ。皆が浮き足立っている。その中でいつもと同じ佇まいの柏木先生の姿が妙に頼もしげだ。祐樹にも質問が飛んでくる。一介の研修医にも関わらず。
「なあ、香川教授から特定の医局員の名前聞いたことがあるか?」
「いえ、全くないです。確かに教授は私の指導医ですが、それ以外のことは仰いません」
正直に答えた。彼は、手術や患者さんのことは良く話すが、それ以上のことは祐樹には言わない。
そして、妙に浮き上がった雰囲気のまま運命の(?)金曜日を迎えた。
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