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第十六章 第15話

 彼は思慮深そうな眼差しになって考えている。祐樹の「たった一つだけの我が儘が自分の執務室での不埒な行い……」思わせぶりに、ワザと抽象的に発言した祐樹は彼の内心の葛藤が表情に出て――どこまでが不埒なのかも分からない彼にとっては「フルコースの行為までではないだろうか?」などと考えているのが手に取るように分かる。考えに耽りながらも彼の手は夕食の片付けを条件反射的にしている。食べ終わった皿はキッチンのシンクに持って行ったり、テーブルの上に祐樹が零したフランスパンの破片を布巾で拭いたり。  夕食用の皿がどんどん下げられるのは、レストランなどでは「早く帰れ」という意思表示のことが多い。  恐らく彼は無意識のうちに手を静かに動かして片付け物をしている。きっと彼の几帳面な性格はでは汚れた食器やテーブルの上の破片が気になるのだろう。ごくごく滑らかで見ている祐樹には決して不快ではなく、エレガントな動きとしか映らない。 「……不埒な行為とは具体的にどんなことを?」 「今、貴方の鎖骨上や胸の飾りの辺りに濃い紅色の花が咲いていますよね?私がお願いした時貴方の執務室で咲きたての濃い紅い花を開かせたいのです。誓って下半身には触れません。その我が儘、呑んで下さい」 「……ああ、その位なら……ただ、手術前は困る」 「ええ、それはお約束します。貴方は私以上に多忙です。食事も最愛の貴方と食べられるなら手料理には拘りません。レトルトのカレーでも、貴方と一緒ならとても美味だと思いますよ?なので無理して手料理は作らないで……」 「別に無理はしていない。今日はたまたま定時に上がれたので……夕食を作ってみようと思っただけだ。朝食の材料も頼んでいる。食べてから出勤しよう」 「不埒なこと」が彼の想像よりもずっと軽いものだったらしく、瞳の輝きは安堵の色を宿していた。  ワインボトルが三本空になった頃、彼の瞳に情欲の艶めいた色が宿る。祐樹としても彼の身体の中に己の愛情を教え込みたい欲求で満たされている。が、よく考えてみると、二日連続でそういう行為をしてしまっていた。今日のところは抱き締めて寝るだけにしようと固く固く決意した。3日連続の行為には――特に受け入れる方のダメージが大きい。明日も手術なので、これ以上彼の薫る肉体に自信を挿れたら仕事に支障をきたしてもマズい。  テーブルの上にはワイングラスとおつまみ――これも彼がデパートででも購入してもらったのだろう――Rホテルに勝るとも劣らないチーズが綺麗に盛り付けられていたお皿にはあと一切れのチーズが残るばかりだった。彼のワイングラスには祐樹と違い少しワインが残っていたので。 「チーズ……召し上がって下さい」  そう言ってチーズを行儀が悪いのを承知の上、手で掴み彼の唇に近づけた。  彼は透明で嬉しそうな笑みを浮かべ、チーズを唇で受け取ると祐樹の指まで舌で舐めてくれる。舌は直ぐに離れたが、祐樹は彼の舌の感触に背中に電流が走る。 「お風呂……使わせて下さいね」  彼が食事の後片付けを手早くしてしまっていたので、後片付けを手伝おうと思っていた祐樹の目論見は外れてしまう。 「ああ、ゆっくりどうぞ。服は?」 「当分必要な物は全て持って来ました。なので大丈夫です」  豪華マンションだけあって、浴槽にはジャグジー機能も付いている。テレビでは見たことは有ったが実際に個人の家で試してみるのは初めてだ。――ちなみに2人の逢瀬の場所、Rホテルはスイートなどには設置してあるかもしれないが、いつも使う部屋には設置されていない――激しい水流が祐樹の身体に当たり手術で凝った肩が少し軽くなる。  彼の潤んだ瞳やTシャツから悩ましげに見える鎖骨……そして彼の指の感触を思い出すと堪らなくなる。  が、本能にストップをかけようとシャワーの温度を調節して水を浴びた。根本的な解決にはならないが、今夜彼をどうしても抱きたいという、素直な反応を見せる祐樹自身は少し反省したかのように容量が小さくなる。  Tシャツと短いジャージ-が祐樹のパジャマ代わりだ。それに着替えてリビングに行くと、彼は電話中だった。話の内容から黒木准教授からだな……と見当をつける。  寝室に行ってますよ……。というジェスチャーをすると彼は申し訳なさそうな顔をした。書斎に寄って興味を惹く記事が載っている医療雑誌を一冊持ってベッドに横たわった。  医療の最前線の問題ばかりが載っているその雑誌のお陰で祐樹の頭も仕事モードに変わる。といっても、彼の香りがするベッドなのでいつもは記事全部がすらすらと頭の中に吸収されていくのに、ともすれば彼のことを考えてしまう自分を戒めつつ読み続ける。 「済まない……医局人事の件の、詰めの作業をしていたもので……」  寝室に入って来た彼は違うTシャツと祐樹と同じような短いズボンを穿いている。尤も値段は桁違いだろうが。  心から済まなさそうな様子が彼の表情や口調からも漂ってきて、祐樹を微笑させる。 「貴方ももうお休みになるのでしょう?ただ、今日そういうコトをしてしまったら三日連続です。私は貴方としたいですが……ただ、明日も朝イチで手術がありますよね。貴方の消耗を考えると、今日はナシにしません……か?」  彼の顔がみるみる曇る。立ちすくんでいる彼を安心させようと――多分、また悪い想像をしているな……と分かったので――雑誌をサイドレーブルに置くと立ち上がり彼を抱き締めた。 「祐樹……シャワーもしかしたら水で?壊れてはいない筈だが」  幾分驚きが混じった囁きが祐樹の耳朶を擽る。 「ええ、本当は貴方を毎晩抱きたいです。でも、それでは貴方の負担が大きすぎる。今日も愛し合いたかった……それを鎮めるために水を浴びました」  彼は背中に手を回して祐樹の身体と彼の身体を更に密着させる。 「そうだな……確かに3日連続はしたことがない。手術もベストコンデションで臨まないと患者さんに悪い。2日連続は今日の手術に影響はなかったと断言出来るが……3日ともなるといささか不安だ。だが、祐樹の隣で寝ていい……か?それともリビングのソファーで寝た方がいいか?」  ベッドは彼のものなのにそんな控え目な提案をされてしまう。彼も自分を納得させるとか、言い聞かせるとかの口調で言葉を紡ぐ。 「もちろん、ベッドで一緒に寝ましょう。一晩中抱き締めてあげます……よ」  そう囁くと、彼の指の力がますます強くなった。多分、Tシャツにシワが寄っているに違いない。  2人してベッドに横たわる。彼の頭は祐樹の胸の辺りに落ち着いていた。両手を固く繋ぎ合わせ取り留めのない話をする。 「祐樹は今週か来週、絶対に外せない用事が有る日はないか?」  そういえば、先ほどもそんなことを聞いていたな……と思い出す。あの時は忌忌しい中山准教授の件で忘れていたが。 「いえ、ないですが?」 「そうか」  祐樹の胸に顔を密着させているため幾分くぐもった声だったが……どことなく楽しそうなニュアンスを漂わせている。 「何ですか?私がこの部屋に戻らない時は、救急救命室でこき使われている時だけですよ」 「まだ、内緒だ。祐樹が喜んでくれるといいのだ……が」  そういう彼の声はとても眠そうで語尾も掠れている。  彼の細い肢体誘導し、頭の下に腕を潜らせる。 「お休みなさい」  唇とこめかみにキスを贈ると彼は咲き初めた桜色の初々しい表情で微笑うと目を閉じた。  祐樹は……水で鎮めたハズの本能が芽生えてくるのを止められない。彼が完璧に眠りの国に入るまで待ってから、トイレでこっそりと熱を発散させてからベッドに戻り、彼の寝息が先ほどと変わっていないのを確かめて無理やり眠りについた。  翌朝何か唇に冷たい感触がしたので目が覚めると最愛の彼の姿はベッドにはない。ただ味噌汁とコーヒーの匂いが寝室までも漂っている。扉が開いていたので。  朝食も御飯に具沢山の味噌汁や出し巻き卵と焼き魚に漬物という祐樹にとっては母親が元気で働いていた時ですら休みの日にしか食べたことのない献立がテーブルに載っている。  これも作りたてらしく、湯気と共に彼の想いが立ち上っている。 「さっき起こそうとしたら、『キスしてくれれば起きます』と言っていたので、してみたのだが、本当に起きたのだ…な」  そんなことを言っていたのか……と――多分夢とうつつの狭間で本音を漏らしてしまったのだろう――そして、唇に感じた冷たい感触は彼の唇だったのかと思い至る。キスをした後、料理の火加減でも気になって直ぐに離れたに違いない。  それでドアが開いていたのかと……祐樹は微笑んだ。このマンションに来てから、彼の表情はますます明るく、色々な感情をそのまま見せてくれるようになった。きっと彼も祐樹と同じような幸せをリラックスして噛み締めてくれていれば嬉しいなと思う。

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