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第十六章 第14話
彼の咲き初める桜の花を思わせる色香を纏った顔を横目で見ながらの食事は祐樹の心と胃をこれ以上ないほどの満足感に誘う。彼の心づくしの料理が素晴らしい味をしている上に高価なワインの芳醇でいて爽やかな呑みごたえとも相俟って祐樹はこれ以上美味しく感じられるモノはないだろうと。
隣に座っている彼の薄紅色を纏った視線が時おり祐樹を掠めていく。
高級マンションだけに全ての雑音がシャットアウトされ、何だか2人だけがこの世に存在しているような錯覚を覚えた。親密な空気が紅色の霧になって漂っているような気も。
祐樹がグラスを空にすると、さり気なくワインが新しいワイングラスに注がれ、サラダ用の取り皿にサラダがなくなると彼は器用な手つきでサラダフォークとスプーンで注ぎ足してくれる。ごくごく自然な動作で。
ハンバーグを食べ終わると、皿に残ったハンバーグのソース――祐樹のおぼろげな記憶ではデミグラスソースだったかと――をフランスパンに付けて食べた。
「ハンバーグも美味なのでこちらもきっと美味しいと思ってましたが、予想以上です」
彼が用意してくれていたフランスパンはどこぞの有名な――それこそ長岡先生御用達の――パン屋に違いない。外の皮はパリッとしていて歯ごたえ充分なのに、中は少女の掌の柔らかさだった。それにソースを絡ませて食べると、この世のものとは思えない程の食感が口の中に広がる。
「そう……か?そんなに喜んでくれるとは思ってもいなかった」
彼は満開の桜の微笑を浮かべた。
「最愛の貴方が作ってくれたという事実だけで充分美味に感じられますが……ましてや献立一つ一つのレベルが高いですから、こんなに喜ばしいことはありません。
ところで、さっきから不思議に思っていたのですが……よくこんなに食器をお持ちになっていたんですね?」
ハンバーグもお代わりをすれば皿ごと変えられ、ワインも種類が異なるボトルを開ける度ごとにワイングラスが新しくなる。
しかもその食器が彼御用達のブランドのロゴが入ったもので統一されている。1人暮らしの彼が食器を沢山持っていることが不思議と言えば不思議だ。同じブランドで統一されているので祐樹のために購入したのかとも疑えなくはなかったが。
昨夜の晩に今日の約束をし、今朝は一緒にマンションを出た。キッチンで朝食を摂ったがその時から食器棚は充実していたように思える。昨夜の逢瀬の前はRホテルに居た。が、その前はというと興信所の件で祐樹が彼を心ならずも遠ざけてしまい、悲観した彼はアメリカに帰ろうとしていたくらいだ。食器を調える時間はなかったハズだが。
「ああ、これは長岡先生と婚約者の岩松先生からの引越しと凱旋帰国祝いだ。長岡先生は、『本当ならお引越しのお手伝いに参るのが部下として当然の務めですが……私では却って邪魔をしてしまいます。なので、伺えない代わりに奮発しました』と言って、この食器類を2人連名で贈ってくれた」
「とても豪勢ですね……まぁ、岩松先生は教授に恩を売っておいてご自分の病院に呼ぼうという下心があるのかもしれませんが……」
彼女がこの部屋に入るのは全く構わないが――兄のような目で彼女のことを見ているだけだと分かっているので――彼女の個室の惨状という言葉では表現出来ないカオスのことや、パソコンを何台も壊したという逸話から、彼の引越しの手伝いに来なかったのは正解だったと胸を撫で下ろす。
彼は頬を桜色に染めたまま思い出し笑いをしている。
彼の頬を両手で挟んでこちらに顔を向けさせて、瞳を合わせる。
「何ですか?」
「岩松先生で思い出したが…、あの先生は彼女のどこが好きか知っているか?」
彼の上気した頬の感触がとても心地よくて、手が離れない。
「もちろん知りません。でも、彼女には男性の庇護欲をかき立てる部分が有りますから『一生大切に守りたい』と思う男性が居てもちっとも不思議ではありませんが」
庇護欲を全く感じさせない顔。大学のサイトに載せられていた――個人情報保護法遵守の世相の今日この頃だ。名前と顔しか載ってなかったが。それも当然本人の了解を取った上でのことだろう――憎き中山准教授の冷たく整った美貌が脳裏を過ぎる。
そんな祐樹の内心の忌忌しさを知るよしもない彼は面白そうに微笑っていた。
「完璧な仕事振りと長岡先生の表の顔が好みだそうだ。だから彼は長岡先生の本当の姿を知らない」
「えっ……?それって詐欺では?いや、長岡先生は騙すつもりはないでしょうから詐欺ではないでしょうが……恋は盲目ですね」
岩松氏とは会ったことがないが。都内有数の病院を経営していたか、する予定のある人だということはいつぞや彼から聞いた。長岡先生は確かに仕事は出来るが憎めない天然ボケの人物だ。と、そこまで考えて、そう言えば祐樹の掌の中で幸せそうに笑っている彼もそういう要素があるな……と今更ながらに思い至る。
もちろん長岡先生と比較すれば至って普通だが。ただ、恋愛に関してだけは天然が入っているかもしれない。祐樹もはっきりと仄めかしの意思表示を先方からしてくれないと気付かないこともあるが、彼は遠まわしの言い方では全く通じない。そうかと思えば随分大胆なことをサラリと言う時も有って……それも自覚ナシで言っている線が濃厚だ。その意味では少し長岡先生と似ているかも知れない。
長岡先生の(一見)完璧に有能な美人内科医としての顔に騙されたことも有ったなと、懐かしく思い出す。彼が凱旋帰国した時に関西空港まで迎えに行った時のことだった。
――彼の方では学生時代から意識してくれていたようだが、全く気付かなかったのは祐樹一生の不覚だ――彼との最初の出会いだった。
あれからもう直ぐ二ケ月が経過するのかと思う。あっという間だったような気もするし随分昔のことのようにも思える。彼の滑らかな頬の暖かさを感じていると、さっきよりは温かくなったとはいえ幾分冷たい彼の手が祐樹の手を包み込む。
「恋は盲目……か。もしかして、祐樹も私のことを誤解して好きになってくれたのかも……しれない……な」
紅に染まった目蓋とは対照的に冷たく澄んだ眼が悲しげに瞬く。
「いえ、それは有り得ません。貴方との関係の始まりこそホテルからですが……。空港でお会いした時、いえ、貴方の手術の画像を拝見した時から気になっていました。空港では『とても好みだ』と思っていました……よ。それに色々な姿を見せて戴きましたよね?
私だけに弱音を零してくれた貴方や、そんなにも精神的に弱っていながらも私の怪しげな料理の手付きに口を挟まず喜んでくれた貴方。そして尊敬すべき上司としての貴方……全てが愛しいです」
彼の瞳を凝視して揺るぎない口調で告白した。彼の眼差しが春のうららかな太陽の光を帯びる。ゆっくりと重ねた手を動かしつつ彼は言った。
「いや、私はさっきも言ったように、祐樹が私のために料理をしてくれるのが嬉しくて口を出さなかっただけだ」
「しかし、あの時の貴方は精神的に追い詰められていらっしゃいました。そういう時は攻撃的になると精神医学の授業の時に習いませんでしたか?だから、私の手つきの悪さを罵ってしかるべきだったのでは?」
「祐樹に対して……罵るなんて私には無理だ。あの時は祐樹が傍に居てくれなかったらそれこそ精神科のお世話になるところだった。有り難う」
彼のしなやかで強い指が祐樹の指に絡む。彼の雄弁な瞳が感謝と愛情を伝えてくる。
「お礼なんて言わないで……これからも弱った時には頼って下さい。最愛の貴方のためなら何でもします」
薄紅色の目尻から涙の雫が一粒煌いている。それを優しく唇で吸い上げた。
「まだ、ワインが残っています。飲みますか?」
ワインは一度栓を抜いてしまうと風味が劣化すると聞いている。高価なワインなだけに貧乏性の祐樹としては気に掛かる。名残惜しげに手を離した。彼の肌の冷たさが祐樹の手に切なく伝染った。
「ああ、飲む。中山准教授からメールが来て、金曜日に食事がてらレクチャーを受けたいとのことだったので……。次の金曜日は帰りが遅くなる。他の日はなるべく早く帰るが……。祐樹の予定は?救急救命室に行く予定は?それと、絶対にこの日は先約がある日などは?」
彼はごくごく事務的に聞いてきた。多分彼としては予定の確認のために口に出しただけだっただろうが。
「私の我が儘を一つ、聞いて下さいますか?」
彼は涼しげだが艶のある瞳を大きく見開いて不思議そうな顔をする。
「一つだけでいいのか?私は祐樹の我が儘ならいくらでも聞くが……」
言い掛けて、少し表情を硬くする。
「だが、仕事の……特に医局人事の我が儘は……」
「そんな越権行為はしませんよ。先ほど、貴方は執務室で不埒なことはしないでくれと仰いましたよね?でも、一度だけそれを許して欲しいのです」
彼の眼差しが何かを考えているように深い色合いを帯びた。
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