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第十六章 第13話

 ハンバーグと付け合せの温野菜も絶品だった。 「もしかして……料理は得意でしたか?」  心配そうに祐樹の横顔を見詰めていた彼は安堵の笑みを零す。 「いや……不得意でも得意でもない。中学・高校の時の調理実習と……それといつぞや祐樹が持っていた本を斜め読みした程度だ。ただ……時々は……自炊していたが」 「それだけで、こんな料理を作れるのですか?」  これには真剣に驚いた。手先の器用さと抜群の記憶力は知っていたが、彼はあまり日常生活の匂いのしない雰囲気を漂わせていたので。自炊していたというのも初耳だった。それにこんなに美味しい料理が作れるならば「時々」というのも少々疑わしい。彼の祐樹を思いやった言葉のような気がする。 「アメリカ時代……と言っても初期の頃だが。もちろん向こうの医師免許を持っていなかったので手術室のスタッフとして雇われた。その時の給料では自炊せざるを得ななかったし、それ以前の日本でも1人暮らしが長かったので適当な材料で適当に作っていた」  懐かしそうな表情で彼は言った。祐樹が大学付近の学生相手の定食屋や牛丼屋で外食していた時に彼は自分で作っていたのかと思った。アメリカ帰りの派手な様子からウッカリと忘れていたがこの人は日本の医師免許を取得後直ぐにアメリカに渡ったのだな……と思い返す。手術室のスタッフの給料は知らないが多分そんなに高給取りではないだろうな……と勝手な憶測をする。 「向こうでも、こんな美味しいポタージュスープを作ってたのですか?」 「そんなに美味しいか?」  真顔で聞く彼は心配しているニュアンスを声に潜ませている。 「ええ、とっても。具の多さや、細かな点ではRホテルの方が上でしょうが、こちらの方が私は好きです」 「そうか……。それは良かった、本当に。  だが、作ったのは初めてだ。祐樹の持っていた本で一番美味しそうだったのがこのスープとハンバーグだった。それで手順を思い出して作ってみた。アメリカ時代は日本食が恋しかったこともあって専ら日本食を作っていたな」  祐樹の顔を確かめてから花が綻ぶように微笑する。そしておもむろに自分のスプーンを取って細い指を優雅に動かす。  初めて……しかも祐樹の持っている本を多分眺めただけでこんな料理を作れるものかと感心した。 「自炊の経験がお有りとは思い至らなかったです。経歴をお聞きしても華麗な部分につい耳を奪われていました。もしかして……」  赤面モノの過去の記憶が苦々しく浮上する。彼は料理人が味を確かめるのと同じ真剣さで自作の料理を味わっていたが。不意に言葉を切った祐樹の顔を怪訝そうに見る。 「もしかして?」 「私が鍋料理とも言えないシロモノを作った時、随分とハラハラなさったのでは?」  彼はアメリカ時代の話の時よりももっと懐かしそうに切れ長の瞳の光を和ませた。 「ああ、そんなこともあったな……。あれはあれで祐樹が私のために一生懸命に料理してくれているのが嬉しくて。本当に危なくなったら――食中毒の危険性などだが――私が代わろうかと思っていたが。  ただ、祐樹の手作りの料理だと思うだけでとても美味しかった。あの時はストレス性の食欲不振だったが胃にすんなりと収まってくれた」  そう微笑む彼はとても懐かしそうで、笑顔もほんのり紅くなっている。もっともこれはワインのせいかもしれないが。ただ、その暖かい雰囲気の笑顔を見ているだけで充分だった。 「今度、鍋を持って来ますから、私の進歩も見てくださいね」  彼に負けないようにキチンと手順を覚えようと思った。 「ああ、是非祐樹の手作りも食べてみたい」  あの時彼は内心ではハラハラしていたのではないかと思ったが、彼の艶めいた笑顔からはそんな気配は窺えない。  ハンバーグも火の通りが絶品だった。肉と玉ねぎが程好いシンフォニーを奏でている。 「こちらもとっても美味しいです。ワインに合いますね」  空になったワイングラスを見て彼が慎重な手つきでワインを注いでくれる。少し面映そうに笑う彼の笑顔は絶品だった。 「こんな高級ワインに合うと祐樹に言われるととても嬉しい……な。実はハンバーグもスープも四人前作った。料理は簡単に二で割っても同じ味になるかどうか分からなかったので本の通りの分量で作った。だからお替りはある」 「是非、頂きます。それにしても、料理の時間と買出しの時間を良くひねり出すことが出来ましたね」  これにはホトホト感心した。彼も祐樹と同じ時間に仕事を終えたハズなので。彼は少し悪戯っ子の微笑みを浮かべた。今日の彼はいつも以上にとても嬉しそうだ。 「実は、食材の買い物は秘書にさせるわけにはいかないので……このマンションのハウスキーパーさんに電話して買って貰った。料理は、帰宅途中に全ての手順をシュミレートして一番早く出来る方法を考えた」 「そうですか……でも考えた通りに出来るのも才能だと思うのですが……」  彼のワイングラスが空になっていたので、今度は祐樹が注いだ。教授秘書に買い物を頼むわけにはいかないだろう。四人分の家庭料理の食材などをお遣いに頼んだら年齢や雰囲気から主婦でもあるに違いない彼女は絶対に不審に思うだろうから。 「あ、有り難う。スープを持ってくる」  白い半袖のTシャツにスラックスという寛いだ格好の彼は祐樹が飲み干した皿を持ってキッチンに消えた。Tシャツの首筋と鎖骨の一部が見えてとても悩ましい。  あのひとは、アルコールを摂取すると胸の尖りの色も綺麗に染まる体質だったな……と思うと咽喉が渇く。ついついグラスを飲み干してしまっていた。赤ワイン用のグラスなのでボトルがたちまち空になる。 「どうぞ。御飯にするか?それともパンにするか?」  同じスープ皿によそってくるかと思いきや、彼は別の綺麗な皿にスープを注いできてくれた。彼の動きにつれ、シャワーを浴びた彼の香りのする爽やかなそよ風が心地よく鼻腔をくすぐる。 「どちらも捨てがたいですね……ワインがあるなら断然パンなのですが……」  彼が口元を弛ませた。 「今日、帰宅する前にも退院患者さんからワインを貰ったので一応持って帰ってきた。それでも良いか?」 「そんなにワインを貰っていたのですか?」  それは知らなかった。とはいえ、彼は現金や商品券の類いは断っているハズ。とすれば患者さんはワインかブランデーくらいしか――以前は、高級料亭のお弁当の差し入れが有ったが――思いつかないだろうなとは思う。 「いつもは謝辞するのだが……今日は、祐樹が来てくれると分かっていたのでついつい貰ってしまった」  言い訳がましく呟くと身軽に立ち上がり、キッチンに消える。野菜サラダの野菜はみなしゃきっとした歯ごたえが心地よい。清冽な感じのする新鮮な味だった。ドレッシングに胡桃が入っている。そのほろ苦さもなかなかのものだった。  彼がワインのボトルを手にして戻ってきた。ふと指を見ると水洗いした後の清潔なピンク色に染まっていて、彼のしなやかな長い指に良く調和している。 「洗い物、しました?手が綺麗な紅色に染まっています」  情欲の艶かしさに染まる指先も綺麗だったが、また別種の初々しさが香り立つ指だった。 「ああ、さっきのスープ皿を洗った。食器洗い機だけでは心許ないような気がするので」  彼の手を引き寄せて握ってみた。お湯を使う季節ではなかったからか彼の冷たい手は、よりいっそう冷たくなっている。 「ワインを置いて、もう片一方の手も握らせてください」  そう囁くと彼は初めて手を繋ぐ高校生――いや、今時は中学生かもしれない――のように一瞬だけ躊躇してそっと指を祐樹の指に沿わせる。  その冷たさが却って官能中枢を刺激する。先ほど食べた野菜よりも瑞々しい彼の指。 が、今はそれよりも祐樹の皿を洗ってくれた指を暖めるだけにする。目蓋を閉じた彼も祐樹の指の感触を全身で味わっている。ただそれだけの触れ合いなのに、深く繋がっているような気がする、身体も精神も。  夕食の最中に一時だけ触れ合う。そういうことが出来るのも、同棲する楽しみだと祐樹はしみじみと思う。彼の目蓋も薄紅に染まっている。  今度のワインは「ロート・シルト」と読めた。これも祐樹が名前を知っているくらいなので高級なものだろう。もっとも、彼と飲めるなら何でも美味だと思えるが。 「ほら、温まった」  そう言って彼の手を離すと、彼の微笑も熱を帯びた紅色が照り映えているようだった。

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