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第十六章 第12話

 息継ぎのために少し唇を離した状態で彼は吐息と共に囁いた。 「本当に……来てくれた……のだな……祐樹が……」  ああ、それで部屋の玄関で会った時少し震えた声をしていたのかと思い至る。2人の呼気と深く接吻したせいで濡れている少し薄い唇を人差し指でなぞる。 「最愛の貴方からのお誘いですからね。今後一切貴方を不安にはさせません。それよりまだ疑っていたのですか?」  彼は自らの心の中を探索するような思慮深いが少しぼんやりとした表情を浮かべた。その表情は祐樹が初めて目にするもので……少し儚げな感じがする。大雨に打たれた五月の薔薇のような。 「いや、疑ってはいない。というよりまだ、実感がわかなくて……何だか夢の中でたゆたっているような感じと言うのが一番正しいかも知れない」 「実感出来ないって………。散々ホテルでも昨夜の寝室でも私の愛情は教えて差し上げたハズですが……それでも、まだ不足ですか?貴方も同性なら分かるでしょう?あの情熱が真情から出たものかどうか……カラダは?」  少し意地悪な――中山准教授の件が心に突き刺さった棘だったので――口調で意味ありげに言う。 「恋愛沙汰は全く分からない。日本に帰って来てからもずっと途方に暮れていたし。祐樹とどう接すればいいのか、未だに分かっていない……」  天才というのはコップの水を傾けたような奇妙なアンバランスを持つと聞いたことがある。半分水を入れたコップを傾けると、深いところと浅いところが出来る。彼の場合、浅い部分が「恋愛沙汰」や「対人関係」なのだろうか?深いところは言うまでもなく「仕事の才能」だ。   確かに彼は戸惑っているようにも見える。恋人に昇格したことに対して。  彼の細い背中に回した腕に力を込めて胸元に抱き寄せる。 「いいのです。貴方は貴方のままで居て下さい。その素の輝きが私を魅了するのですから」 「ああ、そうする。ただ……」  言いにくそうに語尾がちいさくなった。 「ただ?」 「職場では、今までのようなことはしないで欲しい。ここまで深く感じてしまうようになったので……多分仕事に手が着かなくなるか……ら……」  祐樹は彼の顔に手を当てて、輪郭をなぞるように愛撫した。彼は思ったことをそのまま口に出しているだけなのだろうが、充分殺し文句だ。 「ええ、貴方がそう望むならそうしましょう。ただ、この部屋に帰って来た時は別ですよ?」 「顔を触られるの……とても気持ちいい……。もちろん、この部屋はプライベートエリアだから、祐樹がしたいようにすればいい」  恍惚の紅い色をした吐息でそう告げられる。 「夕食……良く作る時間が有りましたね?いつもと同じくらい忙しいのでしょう?」 「迷惑……か?」  懸念を帯びた彼の声は青色の口調だ。 「いえ、嬉しいです、とっても…。貴方が居てくださるだけで幸せなのに、夕食まで用意してくださって……」 「そうか」  祐樹に幾分細い身体を凭せ掛けて満足そうにポツリと一言。仕事から戻ってシャワーを浴びたのか、彼の髪が少し濡れている。それを手櫛で梳きながら、この心配性の恋人はまだまだ不安がたくさん有るのだろうなと思う。一つ一つその心配を解いていく努力を怠らないようにしなければと心に決める。 「貴方のことですから職務はキチンと果たされてから帰宅なさったのでしょう?それから夕食の支度は大変だったに違いないと思いまして。嬉しいですが、食事は別に手作りでなくても大丈夫ですよ……それに私が早く帰宅した時は、私が作って置きます。で、今日の献立は何ですか?」  彼は幾分、含羞を浮かべた顔で祐樹を夕食のテーブルに案内した。キッチン部分とは壁で仕切られているが、その壁も2人の腰くらいの高さで、キッチンの様子も丸分かりだ。 「祐樹の勤務シフトを見て、時間に余裕がないのは分かったので手の込んだものは出来なかったが……」  食事用のテーブルは2人で使うのが勿体ない広さだった。その上に湯気の立っているポタージュスープとハンバーグ、そしてサラダボウルには沢山の野菜が彩りよく盛ってある。そして、赤のワインも置いてあった。 「いったん自宅に帰った時に手洗いとうがいは済ませましたが……もう一度念のためにしてきますね」  昨日の夜と今朝の滞在でもはや勝手知ったる恋人の家になっている。  湯気の立ったポタージュスープはとても家庭的な感じがして。ああ、この人が作ってくれたんだな…と暖かい気持ちになる。時間がないので多分缶詰のスープを牛乳で混ぜて温めたもので、ハンバーグも彼行きつけの百貨店の惣菜売り場で購入したものに違いないがと思いながらも。祐樹が1人、部屋で摂る食事はコンビニのお弁当と湯を注ぐだけの味噌汁が普通だっただけに、充分贅沢な夕食だと思った。スープの湯気が幸福の象徴のように祐樹の胸を温める。  うがいと手洗いは職業柄習慣になっている。いつ何時患者さんから何に感染するかも分からない職場なので。彼の洗面所にも医療用のうがい薬と手を洗う時に使う消毒用アルコールが常備されていた。  ついでに顔も洗ってダイニングルームに戻った。  祐樹の姿を見た彼は見ているこちらが恥ずかしくなるほど紅の薔薇の笑みを浮かべる。 「疲れただろう?ここは自宅なのだし、普段着に着替えたらどうだ?」 「いえ、そんなに疲れていませんよ。ネクタイを解けばどうということはありません」  それよりも、彼が手を加えたと思しき料理を食べたいという欲求の方が強かった。 「そうか……?では、乾杯しよう」  そう言って、赤ワインのコルクの栓を器用に抜いていく。  ちらりと見たラベルに、見覚えのあるフランス語が書かれていた。「モンラッシェ」と書かれているのではないか?と。ただ、祐樹はフランス語の授業など大学でもなかったので確かなことは分からないが。しかし、とても高価なワインだとゲイバー「グレイス」で見たことがある。飲んだことはないが。 「そのワイン……ラベルが素敵ですね。わざわざ買ってきて下さったのですか?」 「いや、退院した患者さんが『快気祝い』として、教授室に持って来て下さったワインだ。私はワインも全く分からないが、多分高価なのだろうと特別な日のために置いてあった」  「特別な日」という言葉の響きがとても嬉しい。ラベルをもう一度見たが、どう読んでも「モンラッシェ」と書いてあるように思える。  ワイングラスも彼御用達のブランドだった。血の色に似た高いワインに、高級なグラス。それだけでワインも美味しそうに思える。  隣に座った彼が祐樹のグラスにワインを注いでくれる。夕暮れ時の太陽の光に祝福されたような赤色だった。テイスティングする。鼻腔に芳醇で甘やかな香りが広がる。一口飲んでみると爽やかだがどこか濃厚な味わいがある。 「どうだ?」  彼が幾分心配そうに聞くので微笑を浮かべて感想を吐露する。 「まるで貴方のようなワインです……よ。爽やかなのに妖艶な味わいのする、とても美味しいワインです」  彼の頬に一刷毛ワインの色が加わる。祐樹の空になったグラスに注ぐと、祐樹がボトルを奪うよりも早く彼は自分のグラスにもワインを注いだ。 「乾杯」  そう言って彼のグラスに当てると澄んだガラスの繊細な音が静かなダイニングルームに響いた。 「あ、美味しい……な」 「食事…頂いても構いませんか?」  さっきからとても良い匂いが祐樹の食欲中枢を刺激している。 「どうぞ、召し上がれ」  彼が少しはにかむ表情を見せる。 「頂きます」  スープを飲んで驚いた。缶詰のというよりはRホテルのスープに近い味わいだった。 「このスープ……とっても美味しいです。こんな美味しいスープを飲んだのは初めてかもしれません」  笑顔で言うと、彼はどう反応していいか迷うかのように視線を宙に泳がせた。 「玉ねぎを充分炒めた積りだったのだが……もしかしたら火の通りが悪いかと思っていたのだ……本当に美味しいか?」 「美味しいですよ。とっても。というと、イチから作られたのですか?」 「いや、イチからではないな……コンソメは固形のを使ったし」  コンソメの他は全て手作りということだろう。ハンバーグも食べてみる。こちらも商売で売り出しているのではない味がした。  スープやハンバーグの湯気からも彼の愛情をひしひしと感じる。とても幸福な気分だった。

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