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第十六章 第11話

「ちなみに、香川教授はこの部屋に入ったことはないでしょうね?」  形の上では疑問文だが、確信に近い。祐樹などよりも几帳面な性格なのでこの部屋の状態を見たら何かしらの改善策を設けそうなので。 「ええ、打ち合わせなどは教授室へ参りますもの」  優雅に首を傾げて長岡先生は言う。周囲のカオスがなければなかなかの風情のある動作と美貌だ。 「長岡先生は、香川教授のマンションに行かれたことはありますか?」 「いえ、ありません。私が婚約者の岩松に頼んで物件を探して貰って…仲介しただけですの。本当なら、当時唯一の部下の私がお引越しの手伝いをさせて頂かなくてはならないのですが、私は片付けがとても下手で……却って足手まといになるかとご遠慮しました」  自覚は有るのだと思ってしまう。 「そうですか……。いいマンションですね。教授にはぴったりです」 「そうですの…まぁマンションまで行かれたのですね。あのマンションに足を踏み入れなさったのは私が知る限り田中先生だけですわ」  嬉しげな微笑を浮かべて彼女は告げた。彼が以前「マンションに恋人を入れてしまうと不在の重さに耐え切れなくなる」ようなことを言っていたし、それほど親しい友人も居ないようなので、もしかしたらそうかも知れないと思っていたが。他人、しかも彼とは多分一番近い人から言われて嬉しくないわけがない。  中山准教授のことを教えて貰った礼を言って、早々に部屋を出た。ドアを後ろ手で閉めるや否や「きゃっ」という悲鳴と本の山が崩れる音がしたが、彼女なりの本の積み方の基準――祐樹には想像も出来ないが――がきっとあるのだろう……。戻って手伝おうとは思わなかった。恩は感じてはいたものの。  救急救命室へは当分行かなくてもいい。というのも祐樹が教授との逢瀬の約束をしていた時に無理やり拉致された時の条件が「これで貸しはチャラ」という阿部師長の有り難いお言葉があったので。その日はやっと祐樹が彼に愛の告白をしようとして気合を入れてホテルに向かう途中だった。電話も入れる余裕がなく、結局は彼が病院に引き返してくれたが……。  ただあの時は彼が絶望の余り発作的にアメリカに旅立つ可能性すら有ったわけで。そうなれば、相思相愛のクセに別離という最悪のシュチュエーションになっていたわけで。当分救急救命室には近寄らないと決めた。  といってもまた、人手が――あそこも慢性人手不足だ――足りなくなった時には呼び出しはあるだろう。ただ、今はやっとの思いで念願の彼の恋人に昇格した祐樹は夜勤はなるべく減らそうと決意していた。  産婦人科の中山准教授の件も気掛かりだ。祐樹の病院では外科と産婦人科では病棟が別れている。しかも相手は准教授だ。同じ科の黒木准教授とは向こうも当然覚えて下さっているので話しは出来るが、全く縁もゆかりもない外科の自分が産婦人科の准教授に会いに行くようなマネはヒエラルキー的にも出来ない。  医局に帰って自分のパソコンを起動させる。院内LANには繋がっていないパソコンなのでネットから自分の大学のホームページに入った。職員名簿などは院内LANで閲覧可能だが、顔写真までは載っていない。その点大学のホームページには教職員の顔写真が載っている。それに准教授というポストでは講義のコマを持っている可能性は高いのでそうなればきっと顔写真くらいは有るだろう。  産婦人科のページにアクセスすると、思った通りに中山准教授の顔のみのショットがアップされていた。長岡先生も客観的に見ればかなりの美貌だが、中山准教授も負けていない。長岡先生が癒し系美女ならこちらはキツ目の美人だった。といっても、営業用の笑いを浮かべているが。  この人が玉の輿願望ねぇ……と思う。何気なく外科のページをクリックしたら、香川教授の画像も有った。講義は持っていないが、客寄せの営業用だろうかと思う。さり気なく辺りを見回すと、紙のカルテを記入したりでパソコンを使っている人間はいない。見つからないようにドキドキしながら彼の画像だけをプリントアウトした。他の先生がパソコンを使っていたら、プリンターは一つなので紛れてしまっては厄介だったので。  生身の彼をいつでも見られるのだが、やはり彼の画像も捨てがたい。定期入れの一番奥にそっと忍ばせる。  30代の准教授とは早い出世だが、彼女はセレブな人の妻になることこそが理想らしい。准教授の上は教授で、その上は病院長しかいないという職場だ。病院長は妻子持ちだし、教授も50代から60代が多い。そのサイトの教授一覧を見てみたが、年齢的にも独身は香川教授だけだろう。それに彼はアメリカでの蓄財もかなりあるようで――祐樹はいくらあるかを聞いてみたいという気にはなれない。彼の財産が目的ではないので――狙うなら絶対香川教授だなと。  准教授のポストだと、気軽に同僚と男性談義は出来ないだろう。ましてやナースとは。  となると男性の意見も聞いてみたいところだなと、思い出したのが麻酔科の友永先生だ。外科に縛られている祐樹と違って麻酔科は手術室や産婦人科――これは帝王切開が主な仕事だが――や救急救命室に行く。彼なら中山准教授を知っているだろう。  早速麻酔科を覗くことにした。内科や外科は敵対関係が宿命のようなものだが、麻酔科と外科は友好関係だ。何しろ手術の時は麻酔医の手助けが絶対必要なので。祐樹が麻酔科に入って入っても何ら差し支えがない。  麻酔科の医局は閑散としていた。友永先生が1人パソコンの前に座っているだけだ。他の先生達は手術や救急救命室に駆り出されたり、仮眠を貪ったりしているのだろう。  唯一香川教授の手術専属になった友永先生だけが暇なのだと容易に推察出来た。麻酔科の激務は祐樹にすら想像を絶するものだと聞いていたので。 「香川教授の懐刀じゃないか?どうした?」  気さくに声を掛けられ言い訳を用意していない迂闊さにホゾを噛む。それだけ思わぬ伏兵の中山准教授の存在に気を取られていた。 「こんにちは。実は今日の麻酔薬と昨日の麻酔薬は種類が違ったのではないかと愚考しままして……。患者さんの体質でそうなったのか、薬の違いなのかを先生に確かめて、もし違ったのならそれを元にレポートを提出しようかと思いまして」  ツイ、口から出た言葉だったが……手術中に疑問に思ったのは確かだ。患者さんが昏睡状態に入る時のバイタルサインが微妙に異なっていたので。  友永先生の口元が嬉しげに弛む。 「気付いてくれたのか……それは嬉しい。あれを見抜けるのは香川教授だけだと思っていたのだが。実は製薬会社を代えてみたんだ。昨日投与したのはこちら。で、今日のはこれ」  そう言って製薬会社が専門医向けに配布する資料を渡してくれた。 「ああ、こちらのほうが脳へのダメージは少なそうですね…」  一読した感想を言った。全身麻酔の場合、脳幹ギリギリのラインにまで麻酔薬を入れることもあり、医療事故に繋がりやすい。  ひとしきり麻酔薬の話をしていたが、医局へ入って来る先生はいなかった。聞くなら今だと。 「ところで、ウチは男が多いので、女性の話も良く出るのですが……某先生が、中山准教授に片思いしているそうなんです。片思いと言っても、顔をお見かけして良いなと思っている程度なのですが……。彼女はどんな人なのですか?」  友永先生の顔が少し曇る。 「その先生は一介の医師か?」 「ええ、そうです」 「なら、こっぴどく振られる可能性が非常に高い。それも厳しい言葉で……な。良いなと思う程度の好きならそこで諦めることをオススメするね」 「そんなにキツい言葉を?」 「ああ、同僚が真剣に告白したんだが『貴方みたいな一介の勤務医なんてそんな対象には絶対入らないから』とバッサリ。そういえば異業種交流会に積極的に出席していると聞いているので、玉の輿狙いかもな……まぁ、美人で才女だから」  祐樹の顔写真での印象は当りだったようだ。だが、彼には別の態度で接するだろうな……とも思う。  定時に上がって、自分のマンションに寄り、当座必要な物を持ち出す。そして、足どりも軽く――と言いたいが、中山准教授の件もあるので――早足で彼のマンションに入った。  帰宅していないかも……と扉を開けると、料理の良い匂いがしている。面映かったが、「ただ今」と声を掛けた。  彼が弾むような足どりで姿を表す。満面の笑みを浮かべて。その薫るような笑みを見詰めるだけで幸せになる。 「お帰り」  彼の声が幽かに震えている。手に持った紙袋を玄関脇に置き、彼を力一杯抱きしめて口付けをした。普段着に着替えて料理を用意してくれたのかと思うと、よりいっそう感激が増した。お互いの溜め息を交換するようなキスだった。

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