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第十六章 第10話

「実は、産婦人科の中山准教授がわざわざ外科にいらっしゃって『ある程度のポジションを持った女性として仲良くしましょう』と仰って下さいましたので……私的なメールアドレスを交換しましたの」  産婦人科の中山准教授と言えば、香川教授に誘いを掛けている張本人だ。今はどのようにウワサされているのかは不明だが、長岡先生も着任同時は香川教授の婚約者との専らのウワサだった。ウワサを助長するように、2人で映画でも名高い宝石店に指輪を選びに――祐樹最愛の彼は長岡先生の婚約者の代わりに他意なく付き合っただけだと後に分かったが――行った過去もある。  ただ、長岡先生は仕事こそ素晴らしいが他のことはすっぽり抜けているので、興味のない他人のことは放置するのがモットーの祐樹ですら危なっかしくてつい手を差し伸べてしまうタイプの女性だ。  しかも香川教授は肉親が居ないので仕事上では信頼できる部下として扱っているが、プライベートな部分では妹のように思っている。それは何となく理解出来た。彼は自分が持ってないものに憧憬の念を抱く人だということも分かってきた。祐樹の母親が入院しているM市民病院に執刀医として教授自ら派遣して欲しいと事務局に掛け合っている最中なのだから。それも、祐樹の母を個室に入れることを条件にして。  きな臭くなってきたな……と思う。 「他科の准教授と仲良くなるのは良いことでは有りませんか?」  無難な答えを返す。 「ええ、それで『女同士で呑みに行きましょう』と誘われまして……参りましたの。仕事帰りに……。Fホテルのラウンジなのですが、准教授は先にいらしていて、遅れてお店に入った私の全身を不思議な眼差しで御覧になられて…」  長岡先生のことだ。プライベートでは突拍子もないことをしていても全く不思議ではない。不思議な眼差し……例えば、白衣を着たままホテルのラウンジに行ったということも考えられる。 「不思議な眼差しですか……?」 「ええ、目の光が怖かったです。特に左手の薬指の指輪を御覧になられる時などは…」  指輪に注意が注がれたとなると長岡先生お得意の天然というか惚けた行動ではないな……と思った。薬指の指輪?普通は婚約指輪を嵌める指だが……。 「その時、先生は婚約指輪をしていらっしゃったのですよ……ね?」 「はい。あ!それであんな怖い目をされたのですね。初めて分かりました」  勤務時間中だからか、長岡先生の指に指輪はなかった。 「その指輪は香川教授と選びに行かれたものですよね?」 「はい、そうです。これですの」  彼女は立ち上がり、これ以上惨状を呈することが不可能だと考えられる机の上やパソコンには目もくれず、先ほどのコーヒーメーカーが載っていた冷蔵庫の上にある大きな紅茶の缶の一つを選び出す。 「この缶の中に入っていますの」  爪で開けようと悪戦苦闘しているが、蓋はなかなか開かない。ナゼ、紅茶の缶、しかも冷蔵庫の上に置いてあるものに婚約指輪を保管してあるのかがとても不思議だったが。 「ああ、爪が折れてしまいますよ。貸して下さい」  これ以上、ところどころに散在している本の山を崩さないように苦心して彼女に近付く。  冷蔵庫の上にはスプーンもあったので、それを使い梃子の原理を利用して蓋を開けた。 「まあ、素晴らしいですわ。こんなに簡単に開けることが出来るなんて……」  絶句してしまった。梃子の原理など、理系の人間でなくても知っている常識ではないのかと。いや、きっと彼女のことだ、梃子の原理や計算式は知っていても、それを日常生活に応用するという発想がそもそもないに違いない。 「いえ、しかし、ナゼ紅茶の缶の中に仕舞ってあるのですか?」  しかも冷蔵庫の上に……とは流石に口には出せなかった。 「ダイアモンドは炭素ですから燃えます。ですが、金属の中に入れておくと火が回りませんので燃えることはないのです。万が一火事になってしまっても、こうしておいて、完全に火が消えて缶の中身も高温でなくなった時に取り出せばダイアモンドは無事なのです。母に教わりましたの。それに、こうして紅茶の缶を一つだけ違う場所に置いておくよりも、他の缶に紛れて置いておくほうが盗難のリスクが軽減されます」 「それもお母様の教えですか?」 「ええ、よくお分かりになられましたわね」  長岡先生が感心した眼差しで言う。彼女の行動パターンや思考法がだんだんと分かってきた祐樹は、合理的な理由がある彼女の行動は誰かからの教えを受けた場合のみだと身に沁みてきた。 「間違えて、紅茶だと思ってお湯を注いで飲まないようになさって下さいね」  ツイツイそんな注意をしてしまった。彼女ならやりかねない。 「ええ、気を付けます」  長岡先生はあくまでも真剣な口調で言う。指輪を掌で大事そうに持ったまま。  祐樹が見たこともない大きさのダイアモンドだった。それも、超高級ブランドの……。値段を聞くのが恐ろしい。 「で、それを御覧になった中山准教授は?」 「いつもは静かにお話しになられる方ですのに『それは、香川教授からの?』と何だかドラマに出てくる女性刑事さんの尋問を思わせる口調で仰って。私が少し遅れて参ったものですから当然お座りになっていらっしゃったのですが、立ち上がって仰いました」  最愛の彼が言っていた「帝王切開手術術式のレクチャーの件で呼び出された」というのは、やはり違うのだなと思う。 「で、長岡先生は何と仰いましたか?」 「香川教授ではなく、別の方からのエンゲージリングだとお話ししました」 「すると、中山准教授は何と仰ったのですか?」 「『では、香川教授とお付き合いをしているわけではないということかしら?』と。指輪もそうですが、私の全身を上から下まで見て仰いました」  大体、分かってきた。長岡先生は彼女のいつもの出勤着に指輪にハンドバック……身に着けているものは祐樹の年収でもまかないきれるかどうか分からない程度だったに違いない。彼女にとってはそれが当たり前なのだろうが、羨む女性なら羨むだろう。しかも中山准教授は彼女よりもポジションは上なのだから、ご立腹されても仕方のないことかもしれない。 「それで長岡先生は?」 「もちろん違いますと。婚約者の名前は申し上げることが出来ないのですが、病院経営者です。香川教授は尊敬こそしておりますが上司と部下の関係ですと。すると彼女は目を輝かせて『やっぱり社会的にステイタスを持った男性と結婚して優雅な若奥様として暮らすことこそが女性の幸せよね。長岡先生もそう思うでしょう?』と。私は結婚すれば岩松――婚約者の名前ですが――の病院で内科部長として今まで以上に働く心積りですのでピンと来なかったのですが、中山准教授が一方的に話されて……。『香川教授にお付き合いしている女性はいらっしゃるのかしら?』と『部下として働いていれば自ずから分かるでしょう?』と」  それで、謝らなければならないことに繋がるわけかと思った。 「付き合っている『女性』は居ないと仰ったのですよね」 「ええ、その通りです。田中先生が香川教授の特別な方だとは存知上げていたのですが、それも申し上げて良いものかどうかも考えあぐねてしまいまして」 「まさか、言ってしまった……とか?」  彼女の行動は予測不可能なだけに逆に怖い。掌に汗が滲む。 「いえ、それは申し上げませんでした。あの晩に『誰にも申しません』と約束しましたし」  あの晩とは、長岡先生に医局で抱き合っているところを見られた夜のことだろう。  「それで良かったと思います。後は、私が何とかしますので」  長岡先生の「今回は」良識のある言動に感謝した。祐樹が微笑むと長岡先生も安堵の微笑を浮かべた。祐樹がこの部屋に入って来てからずっと済まなそうな表情を崩さなかったので。彼女にとってはパソコンが修復不可能に壊れてしまうことよりも、祐樹――というより、きっと香川教授のこと――が一番の懸念の種だったに違いないと分かる。 「謝るなんてとんでもないです。むしろ教えて下さって有り難く思います。中山准教授は香川教授のステイタスと彼の財産……もちろん、彼の容姿も重要だとは思いますが……その全てが魅力的に映ったのでしょうね。産婦人科も救急救命室と同じ程度に忙しい上に、訴訟のリスクの大きい科です。そんな科の激務に疲れ果てて『優雅でセレブな若奥様』になりたい夢を持つのも分かるような気がします。女性は結婚という逃げ道がありますが、男性にはそれがないから皆必死で働いています。ただ、香川教授は誰にも渡しません。彼が望むのなら仕方ないですが……」 「それはないと思います。あの晩の教授はとても幸せそうでした。教授のあのような表情はついぞ拝見したことが御座いませんもの。2人でお幸せになって下さいませね」  兄を案じる妹の笑顔で長岡先生は励ましてくれた。

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