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第十六章 第9話
あんなに細いヒール――足首もそれにつりあうようにとても細いが――の靴音がナゼ、ポテポテと聞こえるのかがとても気になった。
祐樹は学生時代いわゆるお嬢様と言われる大学との合コンなどに出たこともあり、女子大生と付き合ったこともある。デートの時はハイヒールだった。彼女達が異口同音に言うには「男性の身長に合わせてヒールの高さを調節するのだけれど、田中君だと一番高いヒールを履いても平気なのも嬉しい」などと言って腕を絡めてきたものだった。
ちなみに、肉体関係が有る無しに関わらず、四条河原町の盛り場では特に親密そうに腕を絡めたり腰に手を回されたりしたのが不思議だったのだが。尋ねると「田中君と一緒に歩いていて、向こうからカップルが歩いて来たら彼女は例外なしにこっちを睨んで、田中君の顔を見てから、隣の人、多分彼氏さんををゲンナリと見詰めるのが面白くって」という答えだったが。そんな彼女達の靴音はカツカツと小気味良かったのに、隣を歩く長岡先生は別段ヘンな歩き方はしていないにも関わらず音が違うのだな……と思っていると、長岡先生が済まなそうな顔をした。
「私の個室、散らかっていて済みません。本来ならば、お招きすべき部屋ではないのですが、病院を抜け出せないのです。予断を許さない患者さんがいらっしゃるもので」
「いえ、散らかっていても私は気にしませんから」
「本当に散らかっていて……」
力のない声で悲しそうに言う。
仕事場を片付ける暇もなく、助手待遇だから秘書もいないのだろうと少し彼女が気の毒になった。本来は内科で治療が不可能な患者さんがこちらには回ってくるのだが、香川教授が手術をしなくても治る可能性の患者さんを長岡先生に――ごくごくこっそりと内科の内田講師とも連絡を取って――内科的アプローチで治療中の患者さんがいることは知っている。彼女も教授以上に多忙なハズだ。
「いえ、全く気にしないので……大丈……」
彼女が扉を開けた瞬間、「…夫ですよ」と言いかけた唇は凍りついた。
長岡先生のことだから「散らかっている度合い」もグレイトだろうな……とは想定の範囲内だったが、それ以上のカオスだった。
机の上には書類や専門書がうずたかく積まれ、しかも判型がバラバラなのでいつ土砂崩れ……いや、このレベルだと「土砂災害」とでも表現したいレベルになるだろう。
床も本棚やファイルケースからはみ出した専門書や書類の山があちこちに存在している。
それにナゼか、机の本の山頂には(多分)マイセンのコーヒーカップが三つも並んでいる。しかも、中途半端な量のコーヒー入りで。
下手に動くと土砂災害が起こってしまうのでは……との恐怖から突っ立ったままの祐樹に、彼女は恥ずかしそうな顔で言う。
「散らかっていて済みません。今、コーヒー淹れますね」
曖昧に頷く。部屋の隅に小型の冷蔵庫がありその上にコーヒーメーカーが置いてあった。ヒエラルキー的には祐樹がコーヒーを淹れなければならないのだが、下手に動いて書類と本の山を破壊してしまうのが怖かった。
「どうぞ、椅子がないので立たせたままで済みませんが……」
彼女は机の上に載っているのと同じコーヒーカップを祐樹に手渡した。
「いえ、先生こそ座って下さい。その靴だと疲れるでしょうから」
長岡先生も湯気の立っている――ちなみに机上のカップからは立っていない――カップを持って彼女の机に近付く。
机の上のコーヒーカップが4つになる。まぁ、相手は長岡先生だ。何が有ってもかなりの免疫はついている。コーヒーカップの中を見て、祐樹は違和感を抱いた。どう見てもコーヒーの色ではない。出涸らした日本茶か、濃すぎる紅茶か、はたまた薄すぎるココアか?いや、それを全部混ぜ合わせたかのような不思議な液体の色だった。
長岡先生は机に背筋を伸ばしたまま優雅に祐樹と同じ液体を優雅に飲んでいるところだった。
少し口に含む。が、やはりコーヒーの味ではない。見た目と同じように紅茶と日本茶を混ぜて、スパイスにココアを入れたような意味不明の味だった。もしかして、どこぞの高級ブランドで売り出している有名だが、祐樹が知らない飲み物かもしれないな…と全部飲み干した。少し勇気は必要としたが。
「ご馳走様でした。このコーヒーはどこのメーカーなのですか?」
聞かない方が良いかも知れないと思いながらも口が勝手に動く。
「○ター・バックスのブルー・マウンテンです」
祐樹も最愛の彼と行った店だ。ブルー・マウンテンは高級な豆であることは知っているし、飲んだこともある。こんな珍妙な味では絶対にない。やはり聞かなければ良かったと激しく後悔した。神経性腸炎を起こしそうだ。
「先生は豆を買って来られて、単に淹れただけですか?工夫などなさらずに?」
インドだかののチャイのように何かを混ぜたと言って欲しいと切実に思った。
「ええ…?私が工夫をすれば余計に不味くなりますので……」
ス○バの豆というブランドに期待しようと思って、話を変えた。
「鈴木さんの件ですが、資料は全て先生の元にも届いているはずですが、如何ですか?」
彼女は上品に微笑んだ。
「ええ、拝見しました。救急救命室に行かれてから血中コレストロールの値が正常値になったのには大変驚きましたわ。そしてもう一つ、動脈壁が弾力的になっています。これは最新の検査で分かったのですが」
静脈壁に弾力が出たというのは正直驚いた。鈴木さんのような重篤な動脈硬化を起こした患者さんは硬化し続けるというのが常識だっただけに。
「そうですか、そんなことが有るのですね」
「ええ、ですから今、内田先生と共同で論文を作成中ですの。何が原因なのかを探っております。私はストレスが原因だと個人的には思っておりますが。田中先生のアイデアがなければ、鈴木さんはここまで回復なさいませんでした。これはとても貴重な実験になります。有り難うございました」
「いえ、私のは単なる思いつきですから」
鈴木さんの望みである手術回避の可能性が更に高まった。その件は安心したのだが。
「それで……もう一件のお話しとは?」
彼女の頬が赤みを帯びる。
「……あのう……あの節……怪我の処置をして頂いて有り難うございました。それで……立ち入るつもりは……全くないのですが……ええと」
先ほどの優雅な様子が全くなくなり、意図不明の動作をしている。言葉を探しているようだが。空のコーヒーカップからコーヒーを飲んでいる。
「ご推察通りです。あの後、一緒に居ました。一晩。ワイシャツの件はお気づきになられてましたよね?」
お嬢様育ちとはいえ、れっきとした婚約者の居る女性だ。それだけで意味は分かるだろう。ただ、どうして彼女の個室でこんな話を振ってきた理由は謎だが。
「えっと、それで……お付き合い、いや交際ですか?ああ、適切な言葉が出て来ないです……」
彼女が不意に腕を動かすと机の上で土石流が起こった。本の山の上に置かれたコーヒーカップが3つ倒れ、黒い液体が書類の上ばかりか、パソコンの上にたっぷりと降り注ぐ。キーボードが床上浸水を起こしてしまっていた。マイセンと思しきカップも割れてしまった、祐樹の反射神経が役に立たないほど派手に。
「パ……パソコンの水分を今更拭ってもダメですよね?」
咄嗟にハンカチを取り出すが、到底修復可能とは思えない。しかも、大きな専門書の下から英語のペーパーブックや文庫本が顔を出している。普通は大きい物を優先して下に置くだろうが。
「気にしないで下さい。パソコンは私物です。バックアップは、私が頻繁にパソコンを壊すのを見かねた病院の情報管理室が責任を持って別の場所のパソコンに取って有りますし」
「私物?そんなことをしても良いのですか?バックアップを情報管理室がしているとなると院内LANのハズですが?」
彼女の謎がますます深まる。彼女は、寂しげな微笑を浮かべた。
「パソコン……苦手なのです。一度、『どう操作したら、ここまで壊れるのか想像を絶する』と情報管理室の方に言われたほど壊してしまい……それ以後は自費で買うようにと事務局からも厳しく言われましたので」
その表情があまりにも悲しそうだったので。今回彼女を混乱させた原因は祐樹と最愛の彼との社会通念を逸脱した関係だと観念して口を開いた。
「そうですか。長岡先生には打ち明けますが……、私の求愛を受け入れて下さいました。ですからそういう関係です……」
彼女は心から嬉しそうに微笑み、その後、表情を硬くした。
「そうですか……。それは良かったです。ただ、それでしたら、私は田中先生に謝らなければならないことが」
心の底から申し訳なさそうな顔をした頭を下げた。その動きでデスクの上から書類が滝のように落ちていく。
が、彼女はその惨状には目もくれず平身低頭といった風情だ。その様子を呆然と眺めていた。一体何を謝るというのだろう?
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