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第十六章 第8話

 彼のマンションで初めて朝を迎えた日、祐樹は朝から爽やかな気分で仕事をしていた。   何だか空気までもいつもよりも清清しい気がする。そして、仕事が終ればまた、彼の時間は自分のものだと思うと頬が緩むのを感じて慌てて表情を引き締めた。  最近では、香川教授の執刀する手術は午前中の一例だけという習慣が定着しつつある。   長岡先生の内科的アプローチが功を奏しているのと、一刻も惜しんで手術をしなければならない重篤な患者さんの一団を全て早いうちに迅速に手術した香川教授の手腕に負うところが多いのだろう。第一助手を務めた祐樹はこれからどうすべきか考えた。  彼は医局内のトラブルで、医局長以下三名の役付きを医局内から選出しなければならず、今朝の朝食時に「黒木准教授と話し合わなければならないので、誠に申し訳ないのだが……祐樹とランチタイムは一緒に過ごせない」と念を押されたばかりだ。出来るならば昼食も共に摂りたかったのだが。  ただ、この場合彼が同席を断るのも尤もだ。いくら祐樹が研修医で医局内の昇進人事とは全く関係がないにせよ事を決める場所に居ることがウワサにでもなろうものなら、祐樹のみならず、最愛の恋人の評判まで失墜する。  今のところ、祐樹が周到かつ秘密裡に動いたせいもあってか、医局長の畑中センセや山本センセの不自然な退職はそれほど大きな波紋を呼んでいないようだった。  四月に彼が教授に着任してから――もともとここは心臓外科専門だ――実力重視のスタッフが手術に入り、手技がそれほどでもない人間、つまり政治力のみで上がってきた人はバックヤードに回されている。  彼はプライベートの思考方法は日本人的発想の方が多いが、仕事となるとアメリカ帰りの合理主義を発揮する傾向が強い。が、もともと心臓外科という仕事は良く言えば専門性が高く、悪く言えば職人技の支配する場所だ。そういうシビアな場所に政治はふさわしくない。佐々木前教授は学会でも活躍しており、そのためには手技には疑問点は残るものの、接待に慣れた営業マンに転職しても上手くやっていけそうな感じが濃厚な畑中元医局長や山本センセなどをその方面では重用していたのは事実だ。  特に山本センセは、祐樹の勘では斎藤医学部長が医学部長に成った時に後ろ暗い動きもしていたようなので、その論功行賞で助手に抜擢されたのではないかと疑ってしまう。  研修医に昇進人事は関係ない。研修期間が終わるまでは祐樹は研修医の身分のままなのだから。ただ、祐樹が一人前の医師であったとしても、彼の恋人であることを利用して――表現は悪いが色仕掛けで――昇進人事を迫るつもりは金輪際ない。  客観的に相応しい手技と人望を持つまではお手盛り人事を受ける積りはなかった。祐樹最愛の彼もプライベートでは最愛の恋人でも、公的な贔屓はしないだろうとは思ったが。  彼がランチタイムを利用して人事面の詰めを行うのであれば、確かめることは一つだ。  彼が昨日言っていた、産婦人科の中山准教授が「外科の教えを請いたい」という件が下心アリのものなのかどうかをナースからでも探ってみなければ。  心臓外科は手術スタッフの業務が最優先される。午後に手術がなければ主治医を務めている患者さん巡りをしなければならないが、祐樹は今のところ入院患者というよりは救急救命室のスタッフを僭称しているといった方が適切な鈴木さんしか受け持ってはいない。   本来ならば指導医(オーベン)である香川教授がもっと患者さんの割り振りを考えないといけない立場ではあるが、目下のところ彼も多忙でそれどころではないようだ。  手術室の清瀬ナースにでも聞いてみようかと思ったが、手術室のナースの控え室に行く口実が見つからない。救急救命室に患者さんが運ばれてきていなければ、暇なナースから情報は入手出来るだろうとは思ったが、あそこのナースは病院全体の情報には疎い。救急救命室だけで完結してしまっているという面も有るので。  それにうっかり足を踏み入れてしまうと、無理やり手伝いに駆り出されてしまう恐れもある。今日は定時に上がって、身の回りの物だけでも彼のマンションに運ぶという約束をしている。その約束を緊急事態が勃発でもすれば別だが、何も好き好んで危険な場所に自ら飛び込むような真似をするつもりはない。  スタッフ用の出入り口で顔見知りのナースが通りかかるのを待とうかと思って、白衣のまま病棟に行くと、長岡先生が向こうから歩いてくる。綺麗に化粧をしたなかなか美人の彼女は白衣をなびかせて颯爽と歩いている。白衣の下からちらりと覗くスーツはCが二つ左右対称に並んだロゴマークの入っているブランドで、テレビドラマなどでは主人公か、主人公のライバル役で出てきそうな「出来る女医」といった見てくれだ。ただ外見だけは……。 「長岡先生、鈴木さんの検査結果をお見せしたいのですが……」  彼女に声を掛けると、表情の選択に困り切った表情で祐樹を仰ぎ見る。ヒールを履いていても祐樹の方が背は高いので。  それは表情の選択に困るだろうな……とは思う。長岡先生には二日前に、医局で人目も憚らず衝動的に交わしてしまったキスシーンを見られているのだから。 「田中先生、お疲れ様です。鈴木さん……ですか?その件と、もう一つご相談したい件がありますので、お時間がお有りになれば……、お手数ですが部屋までいらして下さい」  鈴木さんの件は病院内のボランティアをしてもらっているので特例扱いだ。長岡先生も容態は気にしている。が、もう一件とは何だろう? 「はい。お供致します」  一応、上司だ。彼女はスーツと同じブランドだと思しきのハイヒールだった。が、彼女の足音はカツカツという颯爽とした音ではなく、ポテポテと聞こえるのは不思議だった。  彼女が祐樹を部屋に呼ぶのは彼絡みには違いないだろうと気になった。

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