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第十六章 第7話
理性をかなぐり捨てて、本能に身を委ねようとした刹那、彼の瞳の光が祐樹を射た。
瞳は欲情の焔が宿っていたが、殆ど気付かない程度ではあったものの不安そうな、祐樹を探っているような…そんな様子の色合いで。
――ああ、この人はLAで見た夢の話をしたことの反応が怖いのかもしれない――
そう思った。何しろ言葉にしなければ全く分からないひとなのだから。
いったん、繋がりを解く。そして大きなベッドの上に向かい合って座った。彼の瞳が切なげに細められた。
祐樹は彼に穏やかな中にも欲情の色を見せる微笑みを投げかけた。ネクタイを丁寧に解く。上質の絹で出来たネクタイは独特の冷たい衣擦れの音をさせてベッドサイドから落ちていく。ワイシャツのボタンを外していると、彼の眼差しがやっと明るくなる。彼も祐樹のネクタイのノットに細い指をかけた。
彼のワイシャツは前が全部はだけ、鎖骨の上の情痕が鮮やかに色付いているのを満足して眺めた。その下の珊瑚色の尖りを凝視する。祐樹の視線だけで感じるのか珊瑚の色が色濃くなっていく。
2人の全ての衣服を取り去ってから彼の細い肩を引き寄せて抱き締めた。彼の唇が誘うように色付く。
唇を重ね、舌で彼の唇の輪郭を確かめていると彼の唇の合わせ目が弛む。舌を入れると彼もおずおずと舌を絡めてくる。その舌を思い切り吸引すると、彼の若木の肢体は風を受けたようにしなやかに反る。
舌同士で性行為をしているみたいに激しく絡み合わせる。息継ぎをするために時折、僅かに唇を離すと彼の息は薔薇色に染まっていて、薔薇の香りをしている錯覚に囚われる。
舌の甘い蹂躙がひとしきり済むと、彼は祐樹の身体に彼の細い肢体を預けてくる。
祐樹は彼の横に身体を移動させる。並んで座ると肩口に首を乗せて濡れた吐息を祐樹の耳元に滴らせる。彼の寝室にしめやかな空気が満ちていた。
「アメリカで、私の夢を見ていただいて有り難うございます。とても嬉しかったですよ」
彼の肢体が少し硬くなった。
「祐樹が……この部屋に来てくれて…手そしてずっと居てくれると聞いてしまったから、嬉しさのあまりに私もついつい、言わずもがなのことを言ってしまった……。もし、祐樹が私の想いを重く……」
彼の小さな声は後悔とも自嘲ともつかない重さを感じた。
彼の肩に手を回して強い力で抱き締めた。
「いえ、全く重くはないです。むしろそこまで想っていて下さったのかと感激しました」
「本当に?」
祐樹の瞳をじっと凝視する彼の目はまだ疑いの念を持っているようだった。が、これは最初にそういう関係になった時の誘い方が悪かったことと、祐樹の過去の恋愛遍歴を不用意に――というより、彼がどういう人間かを完全に把握していなかったことが敗因だ――話してしまったことによるものだろう。
「ええ、本当です。貴方ほどの魅力――性的にも、人間的にも――の有る方にそこまで想われてとても幸せです。
蛇足ですが、貴方が私を『グレイス』で御覧になられた日、確かに私はモーションを掛けられていましたが……あの日、もしも貴方が私の視界に入って来られて……そしてお1人で来られたのが分かったならば、絶対にあの人――確か名前はアキだったような――の誘いは断り、貴方と2人きりになりたいと誘っていたと思います。貴方は今と同じように魅力的な方だと、とても好ましく映ったと思います。学生時代の貴方は今とそんなに変わっていないのでしょう?想像ですが?」
彼の瞳からは重い光は消えている。春のうららかな光を宿している。先ほどの恍惚とした色も一刷毛残ってはいたが。
「魅力的かどうかは分からないが……学生時代とは身長も体重も殆ど変わっていない。いつぞやは、柏木先生に『顔や雰囲気は学部生の時と同じだな……ただ、ポジションが変わって前髪を上げたところだけが以前と違う』と言われたことはある」
柏木先生は彼の学生時代同学年だった。彼は一介の医局員だ。香川教授は同じ年齢ながら教授のポストで凱旋帰国してからはそんなには親しくしていないのだが。ただ、実直な柏木先生が「変わっていない」と言ったとすれば本当に変わっていないわけで……。
祐樹はゲイ・バー「グレイス」で実は自分からモーションを掛けたことは一回もない。が、もし彼が1人で呑みに来ていたとすれば唯一の例外になっていた可能性はある。あくまでも仮定の話だが。
「その時にお会いしていればと少し悔しいですね……。キャンパス内でお見かけしても『好みだな……』とは思ったかと。とても残念なことをしました」
彼の表情はとても幸福そうだった。見ている祐樹も幸せになるくらいに。
「そうか……それならなけなしの決意を振り絞って学生時代に祐樹の前に現れておくべきだった……な。
本当に勇気を出して日本に帰って来て本当に良かった。
てっきりアキさんと幸せに付き合っているとばかり思っていたので、帰国する決意がつかなかった……」
彼の口調も暖炉の火のようなオレンジ色と、炎の激しい高温を感じる。だが、それが祐樹にとっては好ましい種類のものだった。
「一時期でも付き合った人のことを悪く言いたくはないですが…アキさんとは長続きしませんでしたよ…性格に少し問題があって……自然消滅を企みました……」
「以前、祐樹が言っていたな……付き合いを絶つ時は自然消滅をすると……。今だから言うが、祐樹が私との間に距離を置こうとしていた時もてっきりその意図が有るのかと切ないほどに悩んだ」
彼の口調が寒々しいものに変わる。
彼の冷たい白い肌を温めるように密着度を高めた。
「貴方は特別です。恐らくずっと……」
万が一、――そんな可能性は皆無に近いですが――貴方に対して心変わりをした場合は、キチンとお話しすると誓います。自然消滅は絶対に目論みません」
「そうか……多分、私は恋愛沙汰に慣れていないし、祐樹に嫌われるかもしれない。改めるべきところがあれば改めるから、心変わりをする前に言ってくれたら嬉しい。
努力は惜しまない積りだが、それでも私に恋愛感情を持てなくなったら、速やかに言って欲しい。その時は祐樹から離れてアメリカに行くから」
彼の口調が幾分硬い。この人は先回りをして別れる時のことまで考えているのだろう。
何しろ、祐樹が止むを得ない事情が有ったとはいえ、少し避けたら……それだけでアメリカに行こうとした過去を持つ人だ。涼やかな外見とは裏腹に激しい気持ちを内に秘めたひとなのだと今更ながらに思う。
「不満なことは今のところは皆無です。ですが、お付き合いしているとお互いの欠点に気付く時も有ると思います。それは私も同じです。
でも、そんな時は……まず隠さずに話し合って改善点を見つけて行きましょう。貴方と何も言わずに離れるのは……絶対に嫌です。私にも思ったことは直ぐに仰って下さいね。改善するように努力しますから……お願いですから何も告げずに離れるなんてことはしないで下さい」
彼の澄んだ目を真摯な視線で見据えて言った。声は自然と哀願口調になる。彼は祐樹の視線を逸らすことなく凝視して、薄紅色の唇を開いた。
「今のところは全く不満なところなんてない。それよりも、祐樹がいつ私に愛想を尽かすかだけを心配している。帰国して、再会して……祐樹と逢うたびごとに好きになる、どうしようもないほど……。
私が勝手に想っていたよりも実際の祐樹の方がもっと魅力と自信に満ちていて……。こんな私には相応しい相手ではないのかもしれないと……そればかりが不安だった。祐樹が好きだと言ってくれても……まだ、夢なのではないかと半分不安だ」
「いえ、私も恐ろしいくらいに貴方に惹かれています。愛しています、こんなにも愛した人は過去には居ません……よ?私は貴方に出会うまで自分では一生懸命生きてきたつもりでしたが、恋愛面にしても仕事にしても……今思えば投げやりな点やいい加減な点がありました。貴方に出会えてそんな自分を批判的に振り返るようになりました。
これからは貴方に愛されるのに相応しい人間になりたいと切実に思います。だから気付いた点は遠慮なく仰って下さい」
彼の瞳にうっすらと涙のベールがかかる。唇は動いているが言葉にはならないらしい。
「私こそ……」
それだけを言って、彼の細い腕が祐樹の背中に回された。
「私の思いの丈を貴方の身体に……刻み込んでも良いですか?」
耳元に擦れた声を流し込む。彼の細い肢体がひくりと震える。
「ああ、存分に刻み込んでくれ」
彼の声は祐樹の熱が伝染したように紅色の艶やかさを纏っていた。
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