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第十六章 第18話

 彼の少し冷たい唇の感触の余韻を感じたいと人差し指で祐樹の唇を一撫でしてから、煙草に火を点けてゆっくりと煙を吸い込んだ。片付けを済ませる時間を足しても出勤時間にはまだ余裕がある。すっかり冷めてしまったコーヒーをゆっくりと味わう。  それにしてもRホテルのキャンセルはとてもとても残念だったのだが。ただ、彼の表情が気に掛かる。確かに残念そうなニュアンスも浮かべていたが。それだけでない……何か楽しみの表情も仄かに混じっていたような気もする。どんな仕事かは今の時点では全く分からないが。  彼が祐樹との逢瀬をキャンセルして――確かにRホテルはいつでも行ける――それでも仄かな期待に満ちた表情を浮かべる仕事?もしかして……と、まさか……という単語が頭の中を駆け巡る。仕事で土日を費やすというのは彼にしては珍しい。そして花も綻ぶ極上の笑みを浮かべて祐樹の傍に居てくれた。といっても黒木准教授や長岡先生の電話は受けてはいたが。そして電話で的確なアドバイスを返していた。彼はどうやら全ての入院患者のカルテを全部暗記しているようだ。患者さんの名前を聞くや否や的確なアドバイスを祐樹の目の前でしていた。そして次の日に祐樹がその患者さんのカルテを調べてみると、最新の情報を元に彼が指示したとしか思えない処置が長岡先生の手で新たに記入されていた。  そんな彼が仕事を引き受ける件は祐樹が知る限りでは一件しかない。研修医の自分には彼の教授権限の仕事を任すワケはないし――祐樹も院政や大奥のように権力者である彼を後ろから操って自分の利益誘導などは絶対にしないと決めていた――今回の難航しているらしい医局人事についても全く知らない。彼が疲れきって帰宅した時はあえてその件には触れず、一緒に入浴して彼の髪を頭皮マッサージ付きで洗う楽しみを覚えた。  ある晩は、ぐったりとリビングのソファーの上に座った彼の横にかなりの距離を開けて座ったこともある。「どうして傍に来ないのか?」と言いたげな彼の少し疲れた眼差しをふんわりとした微笑でかわして言った。 「私の足に頭を載せて下さい」 「祐樹の……膝枕……?」 「ええ、聡こちらへ」  彼はゆっくりとしなやかな身体を倒して、祐樹の太腿に頭が触れる直前にピタリと動きを止める。 「重い……と思うが……?」 「たかが5キロそこそこでしょう?貴方なら脳の容量が多そうなのでもう少し有るかも知れませんが……大丈夫ですよ」  成人男性の頭部は大体その位の重さだ。もちろん個人差はあるが身体の他の部分よりその差は少ない。  彼は祐樹の脚にゆっくりと頭を載せたが、その重さは絶対五キロではない。 「首を持ち上げて私に気遣って下さっているのは分かっているので……そんな心配はなさらないで……全部私の脚に委ねて」  徐々に脚に掛かる重量が増えていく。彼の細くて長い首に手を当てて筋肉の状態を確認する。すっかり委ねたようだった。両手を肩に近い方に当てて耳の下までゆっくりとマッサージをする。彼の首筋のリンパ腺が腫れているのを確認してゆっくりとリンパの腫れを揉み解す。その後、彼の肩幅は有るが細い肩も丁寧に。 「やはり、かなり固いですね。まぁ、手術もデスクワークでも肩凝りはつきものですから」  彼はとても気持ち良さそうに目を閉じている。長い睫毛が影を落とす目の下にうっすらと隈が浮かんでいるのを見て、目の下をぐっと押した。充分に時間を掛けて目の下もソフトなタッチで撫でる。その後、彼の白皙の額からこめかみ、そして描いたように形の良い眉毛の辺りを優しいが要所要所では少しだけ力を込めて……彼の疲労が少しでも軽減されますようにと、それだけを考えて手を動かす。 「祐樹…とても気持ちがいい……」  彼は恍惚の色を滲ませた呟きを零す。 「そう?少しは疲れが取れましたか?」 「ああ、肩や首の血流やリンパ液の流れが活発になっているのが分かるようだ……とても上手いのだ……な。顔を触られるのもとてもリラックス出来る。まるでプロのマッサージを受けているようだ……」  目をつぶってほの紅い唇を満足げに動かしている彼の口調はとても安らかで……祐樹はかなり満足した。  ジツは祐樹以上に疲れている彼のために最近見かけるようになったクイックマッサージの店に行き、サービスを受けながら必死に手順を覚えてきたことは彼には内緒だ。 「そう仰って下さって嬉しいです。貴方が満足されるまで続けます」 「……悪いが…肩と首筋をもっと……」  そのマッサージは彼が心地よさの余り寝てしまうまで続けた。規則正しい寝息を立てる恋人を起こさないようにそっとベッドルームまで運んでベッドに寝かせた。彼の寝顔はこの上もなく安らかで、唇には淡い微笑が刻まれている。  情熱的に接する時も悪くはないが、こんな穏やかなスキンシップも祐樹をこの上もない幸せな気分にさせる。  追憶に耽っている間に煙草を一本吸い終えた。朝食の後片付けをして部屋を出た。祐樹は手術がないので、しかも主治医として任されているのは「本当に重度の心臓疾患の患者さんですか?」と突っ込みを入れたくなるほど元気な鈴木さんだけだ。  本来ならば指導医である彼が新たな患者さんを割り振るのが一般的なのだが。ただ、今の彼はそんな余裕は全くなさそうだ。事情が事情なので已むを得ないが。しかも医局に居れば「香川教授の懐刀」と認知されてしまったので、今まで話しかけもしなかった先生までもが妙に馴れ馴れしく寄って来る。  そんな理由もあり、祐樹は最近放射線科に通っている。CT画像の読影を放射線科の先生に教えてもらうために。あれだけ天才の名を欲しいがままにしている彼も密かに努力している。彼の天賦の才能を羨む気にはなれないが、祐樹は祐樹なりに頑張ろうと思っていた。CTの読影は手術室では必要のない技術だが救急救命室では重宝されるので。  放射線科も麻酔科と同じく縁の下の力持ちといった科だ。祐樹が教えを請いに行ったら快く了承してくれた。これは内科の内田先生に仲介を頼んだのだ。筋からすれば上司である香川教授が話しを通すのが望ましかった。しかし、多忙を極める彼にこれ以上迷惑を掛けることは避けたかったので。  放射線科の西本講師に教えて貰っていると、祐樹の携帯が振動しメールの着信を告げた。時計を見ると午後三時過ぎだ。メールは彼からだろう。西本講師に急用が出来た旨を断って「ご教示感謝致します」と丁重に挨拶して放射線科を出て、彼の執務室に向かう道すがら返信メールを打つ。「秘書は外出させて下さい」と。  執務室に着くと、名前を告げた後に入室する。ここは教授達のエリアだ。特に他の教授が通りかからないとも限らない。廊下という公共の場所では礼儀正しくしていないと祐樹はともかく彼の沽券に関わるので。  彼は先ほどのメールでごくごくプライベートなことだと悟ったのだろう。僅かに頬を薄紅に染めた微笑を祐樹に投げかけた。  静かに彼に近付き、小声で確認する。 「先ほどのメールの件は実行した?」 「ああ、済ませた」 「では、聡にいつぞやお願いした件……今、ここで……」  恋愛関係には時々察しの悪くなる彼だったが。紅色が濃くなった彼の頬が祐樹の言いたいことを悟ったことを知らしめる。いつぞやの件とは、この部屋で一回だけ鎖骨の上の紅い情痕を更に紅く咲かせる許しを貰った件だ。  彼はデスクから立ち上がり祐樹の手を握ったまま部屋の中央まで歩み出す。繋いだ指先が僅かに震えている。恐らく恋人になって初めてのこの部屋でのそういう意味を持つ触れ合いに緊張しているせいだろう。 「脱がせましょうか?」 「いや、自分で脱ぐ。上半身だけで良いのだろう?その代わり……キスして欲しい」  彼は時々大胆になる。かと思えば羞恥の色を浮かべる時もあるが。イマイチその基準は分からない。緊張で唇が乾くのか舌で湿らせている様子がこの謹厳な雰囲気の執務室の中では特に艶かしい。  彼の細い腰に手を回して唇を触れ合わせた。背徳めいた感情が唇や舌の動きを大胆にさせる原動力になるのが不思議だった。舌を絡ませて思い切り吸った後、彼の上顎を擽る。その動きに翻弄されたのか、彼の細い肢体から力が抜けて祐樹に凭れかかる。が、唇だけは離さないでおこうと努力している様子がとても健気でそそられる。彼の口腔に思いの丈をぶつけようと。熱い吐息と舌と唇で彼の唇を蹂躙した。唇を離すと口付けの激しさを物語る、2人の唇に水分の架け橋が出来る。彼の唇も薄い紅色に染まっている。吐息も紅梅の色を帯びていた。  彼は白衣とジャケットをするりと脱ぎ捨て、震えるしなやかで白い指先がネクタイを解く。その衣擦れの爽やかだかどこかねっとりとした音が専門書に囲まれた部屋の空気を艶やかな色に染める。
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