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第十六章 第19話
ネクタイを解き白に近い水色のワイシャツのボタンに掛かる彼の指は僅かに震えていたがそれでも器用にボタンを外して行く。ボタンを掴む彼の桜色の爪の形までもが綺麗だった。
彼の白い素肌が露わになる。しばらくそういう意味では触れていなかった彼の肢体だったので当然のことながら鎖骨の情痕は色褪せてしまっている。それを遣る瀬無い気持ちで見てから、ゆっくりと顔を近づけた。彼の表情を確かめながら。彼は微笑みを浮かべていたが、何事かを考えている様子だった。
彼の鎖骨上の花を再び瑞々しく咲かせようと唇で挟んで強く吸う。背中に縋った彼の手の力が強くなった。
僅かに唇を離して彼に告げた。
「もっと綺麗な色にしたいので……痛かったら直ぐに言って下さい」
その咽喉声に彼の背中が綺麗に撓る。力を加減して歯を立てた。縋っていた彼のしなやかで強い力を秘めた指が祐樹の背中を強く抱き締める、痛みを耐えているように。ただ、制止の言葉はない。薄紅色の溜め息を零すのみだった。歯で噛んで舌で宥めるように愛撫する。その一連の動作を続けていると彼の上半身からは清潔な香りと汗の匂いが程好く調和した薫りが立ち上る。その薫りに包まれて祐樹はこの上ない幸福を味わっていた。
彼の情痕も五月の雨に濡れた紅い薔薇の花を思わせるほどに染まっていた。祐樹は満足げに小さな薔薇を見て、彼に告げた。
「痛くはなかったですか?」
「ああ、大丈夫だ」
そう告げる彼の声も薔薇の艶を纏っていた。
「聡……もう数箇所、花を咲かせてもいいですか?」
低い声で囁くと彼は一瞬考え込む。が、薔薇色の溜め息が結晶を作った声で囁く。
「手術着を着て……見えないところなら……祐樹の好きにして……良い」
鎖骨の肩寄りに祐樹の所有の証を刻み付けた。彼の白絹の肌に祐樹が作った小さな赤薔薇が4つ並ぶ。その下にある胸の尖りも存在を主張していて。天使に魅入られたキリスト教徒のようにその尖りに唇を寄せる。甘く噛むと彼の背中が電流を流したかのごとくビクっと震えた。唇を少し離して息で刺激すると、胸の飾りがごく薄い珊瑚の色から珊瑚色に変化する。もちろん硬さも珊瑚珠だった。舌だけで愛撫する。この方法だと空気が触れて感じやすいと経験上知っていたので。彼の吐息も珊瑚色をしている錯覚を覚えるほどに色づいている。右胸を珊瑚球というよりはダイアモンドの硬さまで育て上げると、胸の尖りの近くにも4つの小さい薔薇の花を咲かせた。木の皮を剥いだ生木の白さと瑞々しさを持つ彼の肌には8つの薔薇と珊瑚珠がとても似合っていた。
彼の吐息が部屋の湿度を上げている。祐樹の背中に縋る手もよりいっそう強くなった。
「祐樹……もう立っていられない……」
その声は切羽詰った艶を帯びていた。祐樹も彼の吐息や素肌の艶めかしさに情欲を煽られていたが。ただ、彼に許可してもらったのは鎖骨の情痕を咲かせることのみだった。これ以上行為を進めるのはとても気が咎めたので断腸の思いで諦めた。それでなくとも許可を貰った場所以外にも紅い花を咲かせている。これは約束違反だ。
「では、止めましょう。貴方の絹のような肌を唇で感じることが出来て嬉しいですよ。っと、こちらはどうなっていますか?」
こんな淫靡な雰囲気と胸や鎖骨への愛撫……いつもなら感じやすい彼は「そういう」モードに下半身も変化しているハズで。服の上からそっと触る。それも事務的な手つきで。
しかし、彼のソコは普段のサイズだった。男の性はデリケートだ。ホテルや自宅でならともかく、ここは職場だということがストッパーになっていたらしい。
祐樹としても行き着くところまで行き着こうとは思っていなかっただけにこの反応には正直ホッとした。もし彼自身が欲情で大きく育っていれば、最後までしなければ祐樹の密かな企みは成功しないのだから。
彼の肢体を応接用のソファーに誘導して座らせた。彼の目は潤んでいて涙の膜が水晶の輝きを宿していた。
横に座って彼のとめどなく零していた吐息が収まるまで彼の白い肩を抱いていた。彼は何も言わず祐樹の肩に頭を委ねている。左手で彼の髪の毛を梳き続けながら何も言わずにずっと。
彼の息が正常に戻ったのを確かめて祐樹は彼の澄んだ瞳を凝視しながら口付けた。彼も目を閉じなかった。いつもはキスを交わす時は目を閉じていたにも関わらず。彼の怜悧な眼差しは不思議な色を灯して祐樹にじっと注がれていた。
空調は適温に設定されているが、それは服を着ているというのが前提だ。キスを終えると彼の床に散らばった服を拾い集め、ほこりを払うと――といってもこの部屋は持ち主の性格を反映して床も綺麗なものだったが――彼の薫る素肌を素早く隠していった。とても残念だが仕方がない。ネクタイを彼がいつも結んでいるのと寸分違わず結び、最後に白衣のボタンを留める。
「我が儘を聞いてくれて、有り難うございます」
「ああ……」
彼は表情こそ普段の彼に近かったが声はまだ夢見心地の響きを宿していた。
「では、私はこれで失礼します」
キッパリと言って足早に部屋を横切ってドアを閉めた。閉める直前彼が祐樹を呼ぶ声がしたが敢えて聞こえなかったフリをして教授室を後にする。
定時に上がり、部屋に戻っても彼の居ない空虚さ――しかも仕事ではない――に耐えることが出来るかどうかは覚束なかったので、ゲイバー「グレイス」にでもしばらくぶりに寄ってみようかと考えたが。彼にもゆかりがある場所だ。行っても彼のことを考えてしまうことは必至だ。それならなるべく考えないでいるには他のことに集中していた方が良い。部屋に戻って祐樹が作成中のレポート「入院患者のQOL(生活の質)改善方法」を書き進めるのが一番だと思いなおした。
値段が安いにも関わらず極上の味が気に入ってかつては良く行った定食屋に立ち寄って夕食を済ませようと思った。どうせ彼は豪華な夕食を食べて来るに違いないので。自分だけのために料理をするつもりは全くない。
一番気に入っていたハンバーグ定食を頼んだが、彼の手料理と比べると格段に味が落ちている気がした。食べ物を食べても味がしない……というのはこういうことを言うのだろうかと、自嘲する。
彼に付けた紅い薔薇はいわば保険の積りだった。話に聞く中山准教授は性格もキツいそうだし、権力や財力を持った結婚相手を探している。しかも、30代前半だと一般的に一番結婚を焦る時期だとか聞いている。最愛の彼は年下だが、権威や財力は申し分のない上に容姿も素晴らしい。
垂涎の的の可能性が高い。だとすればどんな手段を使って狙ってくるか分からない。卑怯にも既成事実を作って証拠を押さえてから「セクハラと騒ぎ立てられたくないのなら結婚して」と脅される最悪の可能性すら有る。実際にそうやって結婚したナースの話を、別のナースから聞いたことが有った。ダテに彼の帰国以前、ナースの愚痴を聞き続けてはいない。そういう手口は嫌と言うほど耳にした。
彼は今、有り難いことに祐樹に愛情を持ってくれているし、彼が中山准教授とそういう関係になる可能性は皆無なのだが。ただ職業柄薬だけは手に入れやすい。産婦人科なら入眠剤(睡眠薬)は扱わないが。この大学出身の彼女なら同級生は色々な科に存在しているハズで。
ニュースでも時々取り上げられるが、入眠剤をアルコールに混ぜ朦朧となった女性を強姦するという事件がある。祐樹が心配していたのはそれだった。彼は以前の手術妨害事件の時には睡眠薬を服用していたが、それ以降は全く飲んでいない。意識が朦朧となっても男性が女性を……ということは考えられないが、実際の行為がなくてもそれらしい写真を作ることは女性でも出来る。それを証拠として騒ぎ立てると脅かすという最悪のパターンは充分考えられる。そのために手を打って来た。
というのは、向精神薬――いわゆる睡眠薬の類いのことだ――の不思議な現象の一つに「絶対にしなければならないこと」や「どうしても嫌なこと」が有った場合、意識が覚醒するというものがある。今日の彼の場合は素肌に散った薔薇の花を絶対に他人には見られたくないと強く思っているだろう。祐樹の前ですら大胆かと思えば羞恥心に染まる時のある彼のことだ。情痕を祐樹以外の誰にも見せたくないと思っていたことは前々から知っていた。だから、今日いちだんと濃い色に染めた。どれだけ強い向精神薬を飲まされたにしろ理性がそれを上回るように。彼の愛情を疑っているのではなく、愛する彼を守るために。
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