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第十六章 第20話

 帰宅しても何だか落ち着かない。彼を信じていないというのではなく、仕事以外での彼の不在がこの部屋にはそぐわない気がした。いわれのない空虚感が部屋には漂っている。  頭を切り替えようと煙草を吸いながらコーヒーを飲み、最近の習慣になってしまった――祐樹の方が帰宅の早いことが多かったので――買った食料の冷蔵庫に入れる。祐樹が居候をする以前から掃除や雑用はハウスキーパーさんがしてくれている契約になっていたそうだが。不在の時間――彼の勤務時間――を予め伝えておいてその時間に掃除をしてくれるそうで、祐樹はその人に会ったこともない。  彼らしく清潔で飾り気のない居間から祐樹専用の部屋に移動する。そこには新しく買ったベッドも搬入されてちょっと見れば一軒家に住む大学生の個室のような有様だ。机と大きめの本棚とベッドのある部屋なので。適度に散らかっているのが、マンションの他の部屋と違っている。この部屋は祐樹のプライベートエリアと思い込んでいるせいか彼はこの部屋を覗くことはしなかった。別に覗かれても構わないが。  パソコンを起動させ、レポート作成に没頭することにした。このレポートは完成させると大学病院内で公開し、興味を持った臨床医が居たら――内科の内田講師は既に快く協力を申し出てくれた――患者さんの数を増やして観察結果を増やし論文に纏めるという計画を指導医である最愛の彼と決めていた。  玄関のドアが開く音がしてふと顔を上げた。職業柄、極度に集中していても、頭脳は他の気配には敏感だ。時計を見るとまだ7時半だ。彼が食事をして帰宅するには早すぎる。  願望の余りの気のせいかと思った。耳を澄ませていると確かに彼が帰宅したようで静かに歩き回る音がする、ほんの幽かな音では有るが。  書きかけのファイルには必須の「上書き保存」すら忘れて慌てて部屋を出た。 「お帰りなさい。早かったですね。もっと帰宅が遅くなるかと思っていましたが……」  洗面所で手を洗っている彼に声を掛けた。洗面所の鏡越しに極上の微笑みが返される。 「ただ今。食事はせずに帰ってきた」 「え?キャンセルですか?」 「いや、そうではなく……待ち合わせのコーヒーテラスでお茶だけ飲んだ。そして急遽作成した手術の資料一式を渡して『これを見て分からないことが有ったらまた仰って下さい。用事があるので帰ります』とそれだけ言って帰ってきた」  絶句してしまった。意外過ぎる展開だったので。急遽作成とは一体いつの間作成したのだろうか? 「夕食、簡単なもので良かったら作ります。その時に貴方が宜しければ詳しい話を聞かせて下さい」 「ここで食べる祐樹手作りの料理の方がどんな高級レストランで食べるよりも私に美味だ。それに話したいことも有る」  そんな可愛いことを言う最愛の恋人にお帰りなさいのキスを送る。彼も執務室で見せたのとは違う心から幸せそうな表情で祐樹の唇を受け止めた。話したいこととは一体なんだろうかとフト思った。改まっての話なのだろう、多分。  キスの後いそいそと台所に向かう。時間がかからない食べ物ということで祐樹の乏しいレパートリーの中では一番早い冷やし饂飩にすることにした。関東では蕎麦が有名だと聞いているが、こちらでは冷たい麺を食べる時、蕎麦と饂飩が半分半分だろうか?中華料理の冷麺のように汁を先にかける食べ方が彼の好みだと以前聞いたことがある。  鰹節と昆布で出汁を作り――以前の祐樹は粉末のものを愛用していたものだった。それも、半年前に買った一番小さいサイズのものが8割ほど残っている――醤油と塩で味を調える。今日買った柚子をたっぷり注いでから火を通して熱を冷ました饂飩に掛け回した。季節の野菜を上に載せ出来上がりだ。  シャワーを浴びたらしく、濡れた髪のままの彼が部屋着に着替えてダイニングに入って来た。 「出来ましたよ。早く召し上がって下さいね。ただ味は保証しませんが…」 「いや美味しそうだ。頂きます。祐樹はもう食べたのか?」 「ええ、てっきり貴方が遅くなると思っていましたから」  付け合わせのホウレン草のごま和えに箸をつけてから饂飩に取り掛かる。 「あ、美味しい…」  彼の前に座ってお茶を飲みながら彼の幸福そうな顔を眺めて聞いた。 「中山准教授とのお食事は断ったのですか?」 「ああ、術式の説明をするだけだったら食事をしなくても出来る。それに祐樹の様子も気になっていた。理由もなくあんなことはしないだろう?」  あんなこととは執務室での狼藉だ。 「本当に中山准教授の思惑は分からなかったの?」 「だから、術式の説明だろう?」  心底不思議そうに彼は言った。どうしてここまで鈍いのか?仕事ではあれほど有能な人なのに感情の機微にはとことん疎い。祐樹も他人のことは余り言えないとは思うが。ありのままに言っても良かったけれども、彼がターゲットにされた理由を説明する気にはなれない。本当に彼を好きになった女性が何の下心もなく誘ってきて、彼もデートに応じるといったことが有ったとしたら――まあ、彼は断るだろうとは思うが――祐樹もあそこまではしない。彼の祐樹に対する愛情には全幅の信頼を置いているので。  だが、この場合中山准教授はセレブとの結婚という条件を満たせば誰でもいいようなので何だか彼には理解不能のような気がする。 「急遽って、いつそんな資料を作ったのですか?」 「祐樹が中山先生と会うのに否定的な感情を持っていることは薄々分かっていた。それが決定的になったのは執務室での一件だ。その後急いで作成した。私が一番損ないたくないのは祐樹の気持ちだから」  真率で澄んだ眼差しが祐樹に注がれる。その言葉を聞いて胸が熱くなる。紛れもない彼の愛情を再確認した気がして。 「…いえ、私のはただの嫉妬ですので気にしないで下さい。それより資料を出して席を立った時の中山准教授の反応はどうでした?」 「嫉妬される理由に心当たりは全くないのだが…でも祐樹が嫉妬してくれるのはとてもとても嬉しい…な。ああ、そういえば彼女は夕食の予約がしてあるのでとても残念そうに引き留めていたが。何でもその後もじっくり話したいとかで静かなバーを知っていると…コーヒーを飲みながら話していた…ただ私はさして興味はないので聞き流して帰って来たが」  ごくごく何でもなさそうに言う彼だったが。バーに誘うと踏んでいたのはビンゴで、その先薬を使う思惑が有ったのかも知れない。杞憂かもしれないが。その時は祐樹の保険が役に立ったと信じたい。そうでなければ執務室での行動が無駄になる。彼は執務室ではそういう触れ合いをしないでいてくれと願っていただけに。 「ええ、貴方と出来るだけ一緒に居たいと思うのは私の我が儘ですので気にしないでください。でも、帰って来て下さってとても嬉しいです。へえ、二次会まで用意されてたのですね?二次会を断った時、中山准教授はどんな表情を?」  笑いかけると、彼も春の陽射しの微笑みを浮かべた。その後、記憶を辿る表情をした。彼は記憶にも優先順位をつけているらしく患者さんのカルテに記載されていることは聞いた瞬間答える。が、どうでも良いことは考えないと出て来ない。幸いに祐樹に関することは即座に答えを出してくれる。 「二次会の話しは食事を約束した時点では出ていなかったのだが。待ち合わせのコーヒーハウスで座ってからデータを渡し、帰ると言った瞬間、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、その後、迫力のある声で『バーまで予約していたのにとても残念です』と肩を落としていたな…。それまでは高い声で楽しそうに笑っていたのだが…『帰る』と言った瞬間表情も一転して怖くなったような気がする。気のせいかもしれないが…ただ、祐樹も知っての通り私は2人きりで人と話して盛り上げるなどということは出来ないので一緒に呑みに行っても楽しくないと思うのだが?」  心の底から理解不能…という彼には珍しい表情をしているだけだったが。  やはり祐樹が懸念していた通りのようだった。何も気付いていない彼に教えるつもりは皆無だったが、やはりバーには連れて行こうとしていたらしい。待ち合わせ場所で会った時はよそいきというか媚びた顔をしていて、「帰る」と言い出した時に――自分の美貌に自信が有っただけに余計に――逃してはならじと思ったのだろう。彼はおぼろげながらも祐樹の言動に不安を感じてくれて回避してくれた。そのことを彼に心からお礼を言いたい。

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