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第十六章 第24話
出迎えに出てきていた全職員が深々とお辞儀をする。彼の前には松田病院長はもしこれが時代劇だったとしたら「下にぃ!」とでも言いそうなほどの勢いで前払いをしつつ歩いている。
「狭い上にむさ苦しいところで御座いますが、応接室で旅の疲れを癒して戴ければこの上ない光栄で御座います。どうぞ、お入りください」
病院長は自らドアを開けて入室を促す。上座を譲り合った後、結局は年齢順とのことで病院長が座った。
それを見計らったかのようにコーヒーとケーキを捧げ持つという表現がぴったりの動作でうら若い清楚な女性が入室してくる。彼の横に座った祐樹は――これも彼が勧めてくれたからだった。病院長は祐樹の存在など頭の中から飛んでいるらしかった――礼儀は完璧だがどこかぎこちない動作でテーブルに置きそっと出ていく。
ちなみに彼と祐樹の前にはショートケーキが置かれていたが病院長にはコーヒーだけだ。病院長の熱烈さからすると――例え好物でなくても賓客と同じものを食べるのが礼儀だ――祐樹の分は用意されてなかったのかも知れないな……と思う。研修医の扱いはそれほど低い。
「ところで、心臓外科学会の理事選出の折は、微力ではありますが力を尽くさせて戴く所存で御座います。私も末席ながら学会には色々と……」
ああ、誤解されているな…と思った。彼がこの病院に執刀に来たのは学会の理事とかの名誉職に就くための根回しだと邪推されたのだろう。
「いえ、私はこれ以上の役職に就く心づもりなど全く有りませんので……お心遣いは嬉しいのですが……」
真顔で言う彼に大声で笑って誤魔化すという苦肉の策に出た病院長だったが。彼の澄んだ瞳が真剣さを増す。
「ただ一つお願いが有るのですが……」
「はい私に出来ることで有ればなんなりと承ります」
どういう頼みなのか分からないせいだろうか。身体を強張らせて彼の言葉を待っていた病院長だったが。続く彼の言葉を聞いて意外な顔をした。祐樹も唖然としたが。それは、祐樹の母親のカルテを全部コピーして欲しいというものだった。
「………研究か何かでお使いになられるのでしょうか?そういえば個室に移すようにと指示なさっていらっしゃいましたが…手それとも関係があるのでしょうね……」
理事選挙なら何とか運動のしようがあるがカルテを院外に持ち出す件は難しいだろうな……と思う。患者本人の同意がなければ本来は無理だ。まぁ祐樹が母を説得すれば良いことなのだが。
「ええ、お恥ずかしい限りですが……。臨床データが足りないもので。ご協力戴けますか?」
どうして彼が母親のカルテを欲しがるのかが分からなかったが、彼なりの思惑があるのだろう、多分それも祐樹のために。
祐樹自身は治療方法について疑問を持っているわけではなかったが。ただこの場で口を挟む立場にはない。病院長はどうやら全く実務に携わってはいないらしい。心臓外科の専門医が腎炎の患者のカルテを欲しがるのかなど疑問点は山のようにあるのだが、病院長は幸いにも気づかないようだ。ただその点を聞かれても多分彼は答えを用意しているだろうな……とも思う。
「研究目的ならば、匿名でということでしょうね?」
個人情報保護法が施行されてから患者のデータは基本的には本人の同意なしには持ち出せない。時には本人が望んでも持ち出せないこともある。ただ研究機関に匿名で……という抜け道があることにやっと思い至る。
「はい。それで結構です。但し、全てのデータをお願い致します」
「承りました。お帰りまでに全て用意させて戴きます」
「お心遣い感謝致します。では早速手術の打ち合わせに入りたいのですが……」
彼の言葉を聞いて病院長は驚いたようだった。
「あの綿密な手術指示書の他にもまだ打ち合わせを?」
「ええ、手術は私と第一助手の田中だけしか熟練しておりませんので」
祐樹の母も当然ながら田中という苗字だがありふれた名前なだけに病院長は気がつかないようだった。
院長はまだ緊張して強張った顔のまま電話機に向かい「外科部長を呼ぶように」と内線電話を掛けている。
「外科部長の山崎と申します。以後お見知りおきを。明日の手術では第二助手を務めさせて頂きます。どうか宜しくお願い致します」
全体の雰囲気は50歳くらいだろうか?山崎先生も緊張して入室すると、応接セットには座らず直立不動で挨拶をした。その動作は外科医らしく俊敏だったが。
「香川と申します。こちらはウチの医局の田中です」
「ええ、存じ上げています。若いのになかなかの腕前だと」
祐樹に向かっても丁重な会釈をしてくれる。これは絶対香川教授の七光りだ。しかし、祐樹もことがウワサになっているとは予想外だ。いつの間に有名人になってしまったのだろうか?
「これから手術予定の患者さんの容態を把握した後、手術室の設備及びスタッフのミーティングを行います。そして、最後は患者さんに執刀医としての挨拶が済んだ後に『手術同意書』を書いて頂くという流れにしたいのですが……」
病院長と山崎先生は顔を驚いた顔を見合わせていた。
「しかし、手術同意書は既に提出されておりますし、スタッフも満を持して待機しておりますが」
動作と同じくキビキビとした口調で山崎先生が控え目に言う。彼は怜悧な微笑を浮かべた。
「術式を説明するのが執刀医の役目です。もし、私が信用出来ないのなら患者さんには手術を拒む権利が有ります。それに根が貧乏性なので明日の手筈を自分で確かめないと気が済まないです」
山崎先生が病院長の表情を確かめていると、病院長はどこぞの共産主義の将軍様にでも申し上げるかの国の国民の風情で言う。
「香川教授のお泊りになる予定の旅館で誠にささやかではありますが……、歓迎の宴――と言ってもここは海の幸しか有りませんが――を開催する予定で御座いますが」
「私は明日9時から執刀予定です。コンデションを万全にしておくためにもお心遣いは無用に願います」
冷静な声だったが、彼が苛立っているのが分かってしまった。執刀とそして祐樹の母のカルテ以外には興味がないのだろう。接待も苦手なハズだし。彼が執刀をする前の晩に押し倒したこともある祐樹は「コンデションを万全に」という言葉は彼の逃げ口上だなと。
「香川教授は手術の前は1人静かにイメージトレーニングをなさる習慣をお持ちです。その成果が、教授の信じられない成功率です」
助け舟を出すべきだと思って言う。2人は感心したような顔をする。
「それでは無理にお誘いするのは却ってご無礼をつかまつります。では手術が終わってからお近づきの宴ということで……」
彼は平静な表情を崩してはいなかったが、表情に霧がかかっている。手術の後は祐樹の母親に面会に行く方ことこそ優先順位が高いと。そして宴会は興味がないことを隠すような感じだった。
「いえ、所用がありますので手術が終り次第失礼させて頂く予定になっております。どうしても外せない用件なので……」
彼に代わって祐樹は言った。横に座っていた彼が感謝の一瞥を祐樹に送ってくれた。
「そう……ですか。ではこれからも何卒何卒よしなにお願い致します」
病院長は立ち上がって土下座でもしかねない勢いで頭を下げた。
山崎外科部長に詳しい話を聞き、手術スタッフの略歴や患者さんの容態について説明を受ける。手術スタッフの医師こそ充実していたがこの規模の病院にありがちなことに手術室専門のナースが居ない。眉間に長い指を置いて彼は何事かを考えていた。
その後カンファレンスルームで彼は患者さんと向かい合った。
患者さんは香川教授の評判を耳にしていたらしく涙を流さんばかりに喜び、嬉々として「手術同意書」に署名・捺印をする。そこには患者さんのご家族も同席していたのだが、祐樹を従えて部屋を出ようとする彼を患者さんの妻がこっそり呼び止めた。手には袱紗で包まれた――恐らくは100万円程度の札束だろう――を持っていて。
「ほんの寸志で御座います。宜しくご査収のほどを……」
頭を下げて言う。
「いえ、このようなお気遣いは謝絶致します。私は国家公務員に準ずる人間ですので、謝礼を受け取ってしまうと収賄罪に問われますので……。心配なさらないで下さい。ベストを尽くすことはお約束致します」
奥さんはとても意外そうな顔をした。この病院でも金一封の悪しき慣習は健在らしい。
祐樹の運転してきた車ではなく、病院長のお抱え運転手付きのキャデラックでこの街で一番高級な旅館に案内される。案の定、部屋は別だ。病院での気疲れと、祐樹の母に会うという緊張が高まっているだろうと、旅館にある大浴場で汗を流した祐樹は彼の部屋に行こうとした。その瞬間に祐樹の部屋の扉が忍びやかにノックされた。
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