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最終章 第1話

 夜も遅い時間に祐樹の部屋をノックするのは彼しか居ない。  いそいそとドアを開けると案の定、彼の涼やかな姿が目に入る。 「済まない、こんな時間に……。寝ていた……か?」  旅館の仲居さんが敷いてくれた布団に目をやりながら心から済まなそうな顔をしている。 「いえ、実はちょうど今、貴方の部屋にお伺いしようと部屋を出るところでした」  安堵の微笑を浮かべる彼の細い手首を掴む。 「多分貴方の部屋の方が広いとは思いますが……折角来て下さったのですから、ここでお話ししませんか?」 「ああ、喜んで」  布団の傍を通りぬけ、和式旅館に良くある庭園を見下ろせる応接セットが置いてある空間に案内した。四人掛けの椅子に並んで座る。彼はまだワイシャツとスラックス姿だ。ただ、祐樹と同じく湯には入ったのだろう、髪の毛は下りている。祐樹も浴衣姿で上司の部屋を訪ねてしまって――まあ、多分居ないだろうが――病院長などが居たらマズいので彼とほぼ同じ姿だった。 「貴方の顔を見られて嬉しいですが……てっきり貴方はもうお休みになっていると思っていましたよ?」  部屋に備え付けてある急須でお茶を淹れて彼の前に置く。 「何だか……同じ建物に居るのに別の部屋というのが切なくて。病院の宿直なら仕方ないと割り切れるのだが……。  それに明日のことを考えると緊張して寝付けない気がして、愛する祐樹の顔を見たら眠れると思って……。  それときちんと礼を言っていない件もある。それも気になって」  いつもは明晰な口調でハキハキと言葉を発する彼にしてはセンチメンタルな雰囲気を感じる。改めてじっくりと検討した患者さんの手術はそれほど難易度が高くない。といっても、市民病院レベルだと対応出来ない症例であることは間違いないが。祐樹ですらそう思うのだから、彼は明日の手術を苦にしているわけではないだろう。  彼は祐樹の母に会うことの葛藤の根が祐樹の想像を遥かに超えて深いことを知る。即断即決の彼にしては――そういうタイプが外科医としての適任なのだが――すっと思い悩んでいたようで……気軽に会わせようとした祐樹はホゾを噛んだ。が、これ以上言葉を重ねても彼の悩みは解決しないだろう。身体を重ねてしまっては一時的には快楽に我を忘れさせる自信は有るが。その手段を取ってしまうと祐樹の母に余計に会い辛くなってしまうだろうことは確実だ。  強引に話しを変えることにした。 「私の顔が睡眠導入剤代わりになるのならいくらでも見て。副作用の心配ナシの薬ですよね。それに私も貴方の綺麗な顔を見ながら眠りにつきたい」  努めて明るく言うと彼のいつもよりも白い唇がわずかに綻ぶ。 「お礼とは一体何ですか?」  答えは殆ど確信に近いものだったが。 「祐樹が私の内心を察して接待を断ってくれただろう?私が強硬に断れば角が立つ。祐樹が言ってくれたお陰で助かった。有り難う。しかし、良く私の気持ちが分かった…ってな。表情には出していない積りだったのに……」  思った通りの答えについ微笑んだ。 「貴方の性格は大体把握しています。それに立場上言いにくいこともあるでしょう。そんな時は私が言いますから……気にしないで下さい。まだ起きてられますか?」 「ああ」  彼の気分転換をと提案してみる。 「ここは海岸が近い。海まで散歩しませんか?」

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