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最終章 第2話

 そう提案してみると愁いを秘めた顔が桜の花が咲き初める風情の微笑みを浮かべた。その基底にはまだまだ憂色が居残っているが。 「ああ、いいな。行こうか」  彼はいそいそと立ち上がる。が、祐樹には気になる点があった。ここは旅館だ。深夜の出入りは禁止されているのではないだろうか?ホテルなら何時に帰っても玄関は開いているが。  その疑問を彼に申し出る。 「『散歩して来る』と従業員の方に言って、大体の帰る時間を言えば玄関は開いていると思う。病院長が直々にこの旅館の女将さんだか社長さんだかに『何でも要望は聞くように』と言ったそうだ。だから多分大丈夫だ」  祐樹から見ればこの病院は数ある大学病院系列の一つにしか過ぎないが、ここの市民にとっては、病院長は名士の中の1人だろう。地元の住民へ要請すれば叶えられる立場だ。  玄関に連れ立って行くと色合いは地味だが咲きかけの紫陽花の絵を描いた着物を着た中年女性がどこからともなく姿を現して、香川教授に微笑みかけた。 「ご迷惑をお掛けして大変申し訳ないのですが、夜の海岸を散歩したいのですが……」 「承りました。玄関は私が責任を持って開けておきますのでゆっくりと夜の海を御覧下さい。玄関を出て右に十分ほどお歩きになられますとと防波堤の切れ目があります。そこから海岸に降りて頂くのが一番早いです」  教授に深々とお辞儀をしてから、祐樹にも同じように頭を下げた。その後番頭に指示を出すためか慎ましげに遠ざかって行った。  彼女の帯も紫陽花だった。着物は季節に先駆けて図柄をまとうとか聞いている。それに草履の上から見える足袋は夜も遅いのに下したてらしい純白で……流石はこの土地一番の老舗旅館の女将だと感心する。宴会を断った――もしかしたら病院長以下の医師がこの時とばかりに無礼講の主賓ナシの宴会をしたのかもしれないが――にも関わらずとても感じはいい。 「有り難うございます。遅くなっても2時間程度で戻ってきます」  彼は玄関のところまで送って来た旅館の番頭にそう言い置くと祐樹の先に立って玄関を出た。道路に出るまでは彼の後ろを歩いた。いかにも部下といった感じを演出するために。宿のほのかな明かりに照らされた白いワイシャツの背中はいつもより儚げな感じがする。もともと標準より若干細い人だったが。肩甲骨の尖りが露わになっていつもは綺麗なラインを描いているのだが、今日ばかりは印象が違っている。  道路に出ると行きかう車もなく聞こえるのは潮騒だけでとても静かだった。五月とはいえ、日本海側だから少し肌寒い。祐樹はこの町で育ったので予めジャケットを着てきた。そのジャケットを脱いで彼に着せかける。絶対寒いだろうと思ったので。 「有難う。祐樹の香りがする……」  満足そうな声は無理に明るさを作っている感じがする。祐樹もその一人だがこの町出身の人間でも東京や大阪で就職している人間が多い。人口自体が少ないし観光地でもないので人通りは全くない。  ごく自然に手を握った。彼も5本の指をしっかりと絡めている。祐樹のジャケットを肩から羽織り、祐樹の指に冷たい指を絡ませた彼は黙って歩いている。どうやら海岸に出るまでは話しをしたくないのかもしれない。 「あ、ここですね。堤防の切れ目」 「そうだな……」 「危ないですからしっかりと手を握っていて下さいね。いわゆる砂浜ではないですので、足元には気を付けて下さい」 「良く知っているな……」  明かりはない。彼以外の気配といえば、波の音と潮の香り、そして足で踏みしめる砂と石だけだ。そこはかとなく漂ってくる彼の雰囲気が安らかな感じに変化したような気がする。 「ええ、一応地元ですから。夏なんかは花火を上げに海岸に来るのが流行りでしたし。寒くはないですか?」 「少し寒い……けれど祐樹の方がもっと寒いだろう?ジャケットを貸してくれたのだし」  暗さに目が慣れてくる。それに灯台の光がかすかに見えた。手頃な石が有ったので、彼の手をぎゅっと握る。 「座りませんか?身体をくっつけたら暖かくなりますよ」 「ああ。何だか本当のデートみたいだな……」  「本当のデート」という言い方がおかしかった。本当でないデートがあるのだろうか? 「そうですか?しかし夜の海岸を歩くのも良いですね。何だか心が落ち着きませんか?」 「ああ、海岸を歩いたのは初めてだ。というより、恋人と特別な場所に一緒に居るというシュチュエーション自体が初めてだ」  彼の声は海の雰囲気で少し愁いが癒されたのだろうか……話し方がいつもの二人きりの親密さを帯びる。が、意外なことを聞いた。 「え?デートスポットには来たことがないのですか?しかし……」  先に座って、彼を両膝の上に誘った。彼は意を決したように後ろ向きに座る。彼の薄い背中が祐樹の胸に密着する。後ろ髪に顔を埋めると爽やかな香りが身体中に広がる。彼の気配からこの話題を嫌がっては居ないことが分かったので、静かに会話をすることにした。  婚約者も居たのでは?という言葉は濁す。 「内々の婚約をしていた時も先方の家で食事をしたり、先方の家族と共にどこかのレストランに食事に行ったりしただけで……。こういう、二人きりということはあまりなかった……な。今思えば彼女も私も恋愛感情を抱いていなかったのだなと……別に二人きりになりたいとお互い言いださなかったし思いもしなかったと思う。  彼女も私と居るよりも友達と遊んでいる方が楽しそうだったし、私は私で早く一人きりになりたいと思っていたものだった。彼女の父親には実の息子のように接して貰えて嬉しかったが……。  ただ、祐樹とは出来るだけ一緒に居たいと思うのとは好対照だ、な……」  過去のことを淡々と語るだけといった風情だったが。やはり寂しい生育環境だったのだな……と思い知らされる。  彼の言う「本当のデート」というのが分かってきた。要は情事の香りが濃厚に漂うホテルではない、いわゆるカップルが行く場所のことを言っているのだろう。  彼がそういう場所に行ったことがないのは驚きだったが。ただそれを指摘するのも残酷な気がする。彼は自分の経験のなさを恥じている気配があったので。ただ、祐樹としてはそちらの方が嬉しいが。 「京都市内では無理がありますが……それ以外の場所、たとえば神戸などに出かけませんか?その様子では行ったことがなさそうですね。貴方と出来るだけ一緒に居たいので。ホテルだけに誘って済みませんでした。ただその方が露見のリスクが少ないと思いまして」  祐樹の腕の中に居る彼はとても満足そうに、そしてとても安堵した暖かい雰囲気を醸し出している。体重を加減して祐樹に凭れかかっている。前に回した祐樹の指をしっかりと自分の指に絡めてきた。 「そうだな。ただ、私は多少顔を知られているので……神戸は難しいかもしれない。ただ、本当に私は祐樹と居られるだけで嬉しいので、それ以上のことは望まない」 「そんなことは言わないで。色々行きましょう、貴方と色々なところに出かけたいです」  誰も居ない夜の海岸に居ると、世界に存在するのは二人きりだという暖かい錯覚が生まれる。彼の右の耳をそっと唇で挟む。彼の肢体の力がさらに抜けた。 「明日……なのだが……手術で一番の懸念は……」 「貴方が心配しているのは道具出しのナースではありませんか?」 「そうだ……良く分かった……な」  感心したように彼は呟く。 「貴方のことをずっと見詰めていましたから。貴方が大学病院にいらした時からずっと。おのずと分かるようになりますよ。大丈夫、例のナースのように悪意を持って妨害しようというのではないので、テンポがずれたら私が指示します。貴方は手術に専念してください、心置きなく」  愛の言葉を囁く口調で耳元に流し込む。彼の背中が祐樹の身体に密着する。 「母の件も心配しないで下さい。上司として紹介する分には何らおかしいことはないのですから。私も仕事で来ているという大義名分がありますし」 「……そうだ……な。ただお母様の直感というのは侮れないと聞いたことがある」 「そんなに心配しないで。最悪の場合、嘘を吐けばいいのですから」 「それはやめてくれ。職場では皆が腹の探り合いをしているからお互いさまという面があるが……お母様に嘘を言うのだけは」  彼の口調がとても真率で。それだけ家族というものを大事にしているのだろう。だから彼の悩みの種になったのだと理解する。 「私が女性だったら良かったのに……と思わずにはいられない。それならまだマシだろう?二つ年上というハンデしかない」  夜の闇にも負けない暗さをはらむ声をこれ以上聞きたくなくて力一杯抱きしめた。耳元で囁く。 「そんな切ない仮定はしないで……今のままの貴方を愛しています。誰よりも」

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