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最終章 第3話
彼が細い首を後ろに捻じる。暗い海岸なのに彼の瞳だけは煌めいている。誘われるように瞳を凝視する。指が解けて祐樹の首を後ろ手で掴む。彼が切望しているものは祐樹だって欲しい。瞳を閉じないままで彼の幾分冷たい唇に唇を重ねた。熱を分け与えるだけの優しいキス。唇の表面以外に触れると、もっと行為を進めたくなってしまう。彼が今望んでいるのは、初々しいデートのハズで。
それに祐樹の母親に会うことを祐樹の予想以上に後ろめたく思っている彼に、これ以上のことをしてしまうと余計に最愛の彼がもっと母に会うのを拒む可能性が出てくる。
誰も居ない海岸で、唇を重ねていると彼の少し冷たい唇の表面がお互いの呼気で暖かく湿った極上の肌触りになっていく。
唇しか触れてはいないが、彼の上唇だけを祐樹の唇で挟み込んで優しく吸い上げた。留守になった下唇を開いて呼吸をしている彼の吐息が艶かしく薫った。もしかしたらいつもの情事の際よりも色付いている吐息かも知れないな……と思いながら今度は下唇を啄ばんだ。後ろ手で祐樹の首と頭に縋っている彼のしなやかで強い力を秘めた指が祐樹の素肌に快楽のさざ波を起こす。
少し唇を離して、彼に囁いた。彼は完全に細い肢体を祐樹に預けてきていたので。彼の香る息が唇に微細な快感の火種を呼び起こす。
「少しは落ち着きましたか?」
「有り難う。何だかリラックス出来た……とても。明日の手術も集中出来そうだ。祐樹が散歩に誘ってくれなかったら、お母様の件で集中出来なかったかも知れない……」
それは嘘だろう。外科医の適正をこれ以上望めないほど持っている彼だ。手術中は祐樹の母に会う件など集中した彼には意識の圏外にあると思われる。が、そう言ってくれる彼の心根が嬉しい。
「貴方は、いつぞや斉藤病院長の部屋で『私には手術だけが出来る環境が望ましい』と仰っていましたよね?あんなにも全身全霊を傾けて手術をする執刀医も私の知る限りでは居ません。貴方の頭の中は手術のことで占められているのでしょうね……。
ただ、ウチの医局、いや、他の科を含めて貴方のような権勢欲も出世欲もない教授がいらしたほうが下っ端は助かります。なので、今のポジションに居てください。私が絶対に裏で支えますから」
彼の耳に囁きを吹き込む。彼の耳、そして――そんなことをしなくても絶対に人の言葉は覚えているだろうが――極め付けに優秀な脳に着床して欲しいと願いながら。
真摯な瞳が間近で潤んだ光を放っている。
「確かに私は手術のことを最優先で考えているが……それはあくまでもオフィシャルな時だ。プライベートな時は祐樹のことだけを考えている。ともすれば執務室に居る時もついつい祐樹のことを想ってしまうほどに」
一言一言噛み締める発音だった。その言葉を聞いた刹那、祐樹は思わず彼のしなやかな肢体を反転させて、正面から向き合うと彼の肋骨が軋んで音がするほど抱き締めた。
「ゆ……祐樹、少し力を緩めてくれないか?少し苦しい」
「済みません。感動の余り手加減出来なかった。聡がそれほど想っていてくれるとは思ってもみなかったので……このくらいの力でいいですか?」
少し緩めて聞いてみた。
「ああ、とても気持ちがいい……ただ、私は祐樹が私を愛していると言ってくれた以上に祐樹のことを愛していると思う。愛する気持ちの単位が違う」
「単位とは10mℓと10ℓなどの違いですか?」
「そうだ。堪えても堪えてもますます好きになるのだから……差は開く一方だろう……な。いつか重荷になる日が来ることも怖い」
またさらっと殺し文句を言う。
「多分、同じ単位で愛している。私も貴方と同棲を始めてからも心の傾斜は貴方に傾くばかりだから」
恋愛にとことん疎いこの人にどうやって祐樹の気持ちを全て伝えることが出来るのだろうかと……普通の愛情表現では足りない気がする。
「ゆ、祐樹。当たっている」
うろたえた、ただどこか嬉しさの残り香を漂わせた彼の口調だった。彼の殺し文句を聞いて祐樹自身も現金な反応をみせたので。
「今すぐ、貴方と一つになりたい。しかし、今夜のところは涙を呑んで諦めることにします。貴方が母に会ってくれなくなる。プライベートな貴方はそういう点はとても潔癖だから。ただ、貴方が愛情表現をしてくれたらこうなることだけを覚えていて……」
肩に額が強く押し付けられる。肯定の合図だった。わずかに震える彼の肢体を強く抱く。
海の音とお互いの吐息だけを聞きながら。身体ではなく、心の欲情が満たされる。そんな気がした。
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