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最終章 第4話

 潮騒の音を聞いていると心が安らかになって行く。それは祐樹の腕の中にいる最愛の彼も同じだったようで。彼の震えていた細い肩も今では安心しきったように祐樹の腕に抱かれている。 「また、いわゆるデートコースに行きましょう。貴方の顔は思わぬところで知られているから……、少し厄介かもしれませんが……人があまり来ないところを探して」 「ああ、とても嬉しい。  しかし、無理だけはしないでくれ。多分、関係が露見すれば、私ではなく累は祐樹の方に重く圧し掛かってくるはずだから……。斉藤医学部長も薄々は勘付いているようだし。  私は万が一、祐樹が病院をクビになったら、長岡先生の婚約者の病院で一緒に働かせてくれるように頼む覚悟だが。私と祐樹の関係を長岡先生は知っている。彼女からも婚約者の岩松先生に仄めかして貰ってもいいし、私が岩松先生に事情を説明してもいい。しかし、祐樹は今の病院を良くしたいのだろう?」  彼の言い分は尤もだ。香川教授は病院の看板医師で、こちらはしがない研修医……もし、露見してトカゲの尻尾切りが行われるなら祐樹がクビになるのは目に見えている。 「そうですね。2人で病院が上手く回るようにはしたいですが、私の優先順位は貴方の方が上です。イザとなれば東京に行きます……よ?」  彼の耳に囁いた。だが、病院で孤軍奮闘している救急救命室の北教授や阿部師長、過酷な勤務に喘いでいる友永先生――と言っても今はそうでもないらしいが――を初めとする麻酔科の先生達、旧態依然の今居教授に率いられた内科の内田講師などのことが脳裏を過ぎる。そして、彼の着任以前にキツ過ぎる勤務を祐樹に嘆いていたナース達も。  大学病院は徹底したヒエラルキー社会なので、最愛の彼が上部層に留まってくれると「病院内の良心を持つ同志」は彼を中心に纏るだろう。それだけの求心力の持ち主だしーー発言力も手術成功率や彼を慕って来る患者さんの多さで徐々にではあるが病院内でもーーかなり重きをなす人物になるハズだ。  だが、彼を縛りつけておきたいとも思わない。二律背反の思いが祐樹の脳裏を去来した。彼が居るところに祐樹も居たいので。  彼がそっと身体を離し、祐樹の存在を主張しているモノに細く形のイイ指を当てた。 「こんなになっているのに……。  何も出来ずに本当に申し訳ない。私がもっと柔軟性を持っていれば……満足して貰えたのに……この年なのにおかしいだろう?明日、祐樹のお母様に会いに行く時に今コレを手や口で愛撫してしまっていたら、会わせる顔がもっと無くなる。もっとサバけた人間だったら良かったのに……祐樹を充分満足させるのが『愛している』と言ってくれた私の役目の筈なのに……」  やはり彼は自分の経験不足と潔癖さを悔やんでいるようだ。祐樹はその方が好ましいと思えるのだが。彼の口調が悲しげな色を帯びていた。確かに男性の生理としては一回こうなったら鎮まらない。そのことは彼も充分承知しているだろう。 「いいのです、それは気にしないで……。ありのままの貴方が大好きなので……母に会った後にお釣りを付けて返して貰います。貴方が泣いて許しを請うたとしても手加減せずに私の思いの丈を貴方の無垢なくせに貪欲なソコにじっくりと分かって貰うつもりです」  キッパリと言い切ると、腕の中に居る彼の肢体が大きく震える。恐らくはその時のことを想像しているのだろう。 「初めての時よりも随分感度も上がりましたし、色々な性技も教えたら期待を遥かに超える上達ぶりで……それに貴方の中は天国に居るよりも気持ちいいのです。  もちろん貴方の顔や性格も私を魅了して止みませんが。  要するに身体も心も私を魅惑の世界に誘ってくれていますよ?」  真摯な口調で想いを語ると、彼は吐息を零した。その吐息は彼が絶頂を迎える時に零すか細くはあるがとても色香を感じる声よりももっと艶っぽい金の雫が2人の身体の間を漂っているかのようだった。  背中に回された彼の手の力が強くなった。2人して身体が密着しない程度で――これ以上相手の肌を感じてしまうと、歯止めが効かなくなるとお互い思ってのことだろう――しっかりと抱き合った。その様子を日本海と満月だけが見ている。 「そろそろ行こうか。いつまでもこうしていたいが……玄関を開けて待ってくれている旅館の人が気の毒だ」 「そうですね。寒くないですか?」 「あ、祐樹のジャケットを借りていたな。もしかして寒いのか?」 「いえ、肉体的には寒くないですし、貴方の気持ちを聞いて心は夏の気分です。ただ……」  随分長い間ほの暗い闇の中に居たので辺りの様子はおぼろげながら視覚出来るようになっている。ただ?と間近に覗き込む彼の顔もぼんやりとだが見えた。彼も祐樹と同じ状態らしい。  その顔がとても無邪気で屈託がなかったので、初心な彼をからかいたくなってしまうのは祐樹の悪い癖だ。特に今日は彼の殺し文句に圧倒された感が有ったので特に。  彼の細く強靭な手首を掴んで祐樹自身に誘導した。彼の顔が羞恥と晴れがましさが混じった色香を薫らせる。 「流石にこのままでは旅館の明るい光だとマズいです。ジャケットを着てボタンを留めれば隠れるので……」  彼は熱湯に触れたのと同じ動作で手を離すとしなやかな動作でジャケットを脱ぐ。そして手早く砂を手で払うと祐樹に着せ掛けてくれた。その上、甲斐甲斐しい動作でボタンも留めてくれた。もしかしたら、彼なりの罪滅ぼしかもしれないな……と思う。旅館に戻るべく海岸を歩く。彼の指の付け根と祐樹の指の付け根をぴったり密着させる手の繋ぎ方をして。  隣の彼はすっかりリラックスした、そしてとても満足そうな雰囲気を漂わせている。  海岸に誘って良かったな……としみじみ思った。 「朝食なのだが……私の部屋でも祐樹の部屋でも差し障りがあるので……旅館の人に無理を言って一室空けてもらった。そこで一緒に食べないか?」 「いいですね。何だか秘密の恋人同士が旅行して夜を過ごし朝の御飯を食べているといった感じになれますね」  彼は咽喉声で笑った。 「本当だな。本当にそうだったらもっと嬉しいのだが……あ、もちろん『夜を過ごし』というくだりが」 「旅館というのは、ホテルよりも何だか淫靡な感じがしますね……」 「誰も知らない山奥の旅館で…露天風呂付きの部屋を取って祐樹と2人きりで過ごす……などということが有ったら最高なのだが……」  海岸での触れ合いで彼の葛藤も少しは吹っ切れたらしい。とても楽しそうな声ながらも底には情欲の炎を宿している声で彼は言う。 「その時は、浴衣の下には何も着けないで下さい。いつでもどこでも貴方の白い絹の素肌や紅い情痕……そして……ああ、旅館ですから飲酒も大丈夫ですよね。貴方の胸の尖りはアルコールが入るとより一層扇情的な紅に染まるから……それを私だけに見せてもらえるように……」  この手の話題には乗ってこないかもと思ったのだが。どうやら心の距離がより一層近寄ったらしい。彼は少し考えて口を開く。ちょうど堤防の上にある道路の明かりの下に来ていたせいもあり、彼の表情は仄かな紅色の灯りを宿している。 「その時は、祐樹も同じ姿になっていてくれ。祐樹が今、ジャケットで隠しているモノを私が口で直ぐに愛せるように」 「貴方はとても上手ですからね……。どうして聞いただけであんなに上手くこなせるのか分からないですが……貴方は何でも器用ですね。尤も貴方がして下さるなら下手でも構わないですが。でも貴方の咽喉の感触もとてもイイですから。っと、思い出すとますますマズくなるので、この話はこれきりというコトで……」  遮ったのは冗談ではなく、そんな魅惑的なお誘いの言葉を彼から聞いたことで祐樹自身がついつい頭の中で想像してしまっていて。これ以上この話に深入りすると前かがみになって旅館の玄関を通り抜けるハメになりそうだったからだ。  道路では流石に手は繋がなかったが横に並んで歩いた。彼は先ほどの露天風呂の計画が気に入ったのか、唇が咲き初める桜の花のように綻んでいる。時々祐樹に流す視線は怜悧な光の中に紅の情愛が混入している。旅館の門を潜ると祐樹は彼の後ろを歩いた。もうここからは上司と部下だ。  紫陽花の訪問着で正装した女将を始めとした旅館の番頭達が――こんな深夜では破格の扱いだ――頭を下げる。彼は丁寧に礼を言ってから祐樹を振り返った。 「資料を渡すのを忘れていた。部屋に取りに来て欲しい」  比較的大きな声だったので、それが祐樹に聞かせるものではなく旅館の人に聞かせるためだと分かる。 「かしこまりました」  そう言って彼に付き従った。

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