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最終章 第5話
「なるほど……。やはり部屋の格が全く違いますね」
彼の部屋に招きいれられると祐樹は感心して部屋の調度を見渡した。
10畳ほどの部屋がメインでその隣には二つ障子が有った。こちらも部屋らしい。松田病院長がM市民病院の威信をかけて系列大学教授には最上の部屋を取ったというわけかと思った。いたるところに季節の和の花が(多分)作法通りにさり気なく飾られ一見質素だが良く見れば贅沢な日本間と調和している。部屋のテーブルにはプリントアウトされた手術指示書が机の真ん中に几帳面に置かれている。その横には祐樹が見たことがない薄型のモバイルパソコンが置いてあった。まぁ、逐一彼の持ち物を把握しているわけではないが。
「明日の手術スタッフと話してみて、各人の脆弱な部分とそこから引き起こされかねない事態の一覧、そしてその場合、第一助手がどう動けば一番良いかの一覧表だ。運転をしてくれて……しかも私の我が儘を聞いて散歩にまで付き合って……疲れているのに申し訳ないが、目を通してくれると有り難い」
彼の細く長い指がホッチキスで綴じられた紙を祐樹に渡す。祐樹が部屋で寛いでいた時間に作成したものらしい。手術には全力を尽くす彼のことは良く知っていたが、短時間に全てのスタッフの危険性を見抜いてそれを書類に起こすとは……彼の仕事に対する情熱を垣間見て、祐樹はますます負けていられないなと思った。部屋に呼んだのはこの書類を渡すためだったのかと。てっきり2人きりの時間を長引かせたいのかと思っていた自分を少し恥じた。
「有り難うございます。寝る前に読ませて戴いて頭に叩き込みますので、明日の手術は心配しないで下さいね」
彼はふんわりと微笑んだ。彼の自宅に居る時と同じ微笑で……彼がリラックスしているのが分かる。これなら明日の手術も彼らしい華麗な手技でこなせるだろうと思わしめる笑みだった。
祐樹の母親に会わせるという――祐樹にとっては最大限の愛情表現だったのだが――彼がどのくらいの重圧を感じるかを迂闊にも考えてなかっただけにその葛藤を吹っ切った笑みが祐樹には嬉しい。
「運転は苦になってませんよ……元々好きですから。それに助手席に最愛の貴方が乗っているのでとても幸せでした。
それに海の風は心を落ち着けてくれました。隣に貴方が居てくれたので尚更です。ただ、貴方と2人きりでこの部屋に居るとなけなしの理性が飛んでしまいそうなので、早々に退散します」
彼の澄んだ瞳を凝視してから、存在を主張しているモノに意味ありげに視線を動かす。彼の視線も祐樹の視線の先に注がれていて……その部分を見た瞬間、彼の頬が薄紅色に染まった。嬉しそうに、だが気まずげに視線を逸らす仕草が初々しい。
「お休みなさい。明日の朝食は何時ですか?」
「ろ、6時だ。紫陽花の間だそうだ。場所は仲居さんに聞けば案内してくれる筈だ」
少し上擦った声で静かに言う声に。
「分かりました。お休みなさい」
彼の作成した書類を持って部屋を出ようとした。もちろん何も気付かないフリをして。
「……お休み。今日は本当に有り難う」
そう言う彼の声は少し沈んだ響きを伴っている。祐樹が期待した通りの反応だった。唇に会心の笑みを乗せて彼の方に身体の向きを変える。右手は書類で塞がっていたので左手で彼の薄い肩を掴んだ。彼は弾かれたように祐樹を見詰める。
「お休みのキス……したいのですが?」
彼は綺麗な笑みを浮かべた顔を上に上げて目を閉じる。頬と目蓋に紅の色を纏っているのがとても綺麗だった。長い睫毛が彼の頬に影を落としている。
潮風に当たったせいで少し潮の香りのする冷たい唇に唇をそっと重ねる。彼の指が祐樹の髪の毛を優しく梳いてくれた。
性行為を連想させない、ただ慈しむだけの唇の戯れ。この楽しさと優しい感覚は彼と付き合うようになってから初めて知ったものだった。それまではキスと言えば相手の性感を高めるための一つの通過点だとばかり思っていたので。
唇の表面だけの触れ合いがどれほど安堵感を与えてくれるのかを身をもって知る。多分彼も同じだろう。お互いの体温が唇に移るまで重ねあっていた。お互いの顔も身体も動かない。唇の感触だけを楽しむ。時々唇を僅かに離して呼吸をする。彼の呼気が祐樹の唇に微細で芳しい空気の流れを運んでくる。その感触は祐樹を虜にするには充分過ぎるほどで。止め処なく耽ってしまいそうだ。とても名残惜しげに唇を離した。唇の代わりに祐樹の指が彼の唇の輪郭を辿った。彼は頬の色を濃い色に染めてただ佇んでいる。彼の冷たかった唇も祐樹の体温が移って温かく、そして祐樹の呼気の水分で少し湿っている。
彼は目を開けて少し潤んだ瞳で祐樹を見詰めた。端整で怜悧な顔立ちと紅色に染まった頬や涙の膜を張った瞳の危ういアンバランスさが祐樹の僅かに残った理性を崩しそうで。
「お休みなさい。いい夢を。それと……愛しています」
「祐樹も……。それと……私も愛している」
澄んだ彼の瞳が真っ直ぐに祐樹に注がれている。その言葉を聞いて祐樹の心臓の鼓動が早くなるのを自覚した。彼に微笑みかけると静かに部屋を出た。
心の中には彼への恋慕の情、手には書類を持って自室に戻った。トイレで一番の懸案事項を処理する。そういえば彼とそういう関係になってから自分で……ということは絶えてなかったな……と思いながら。祐樹の手がもう覚えてしまった――それはこの歳まで生きていれば男は皆そうなるだろう――手順を辿りながらも、頭の中では彼の極上の濡れた絹の気持ちが良いという言葉では表現不可能な彼の内壁を想像していた。緩くもなくキツくもない絶妙な密着具合と、そこだけが別の生き物のように祐樹を天国に誘う彼の濡れた動きを思い返すと自分自身はますます昂まる。
やっと通常サイズに戻してから内風呂にざっと浸かると旅館備え付けの浴衣に着替えた。布団に入る前に彼がくれた書類を熟読した。それは手術スタッフ一人一人への綿密な観察をしたに違いない各人の仕事上の長所と短所が書かれてあり、陥る可能性がある失敗やミス、そしてその対処法が具体的かつ緻密に書いてあった。彼はミーティングの時――もしかしたら祐樹が知らない間にこの話が進んでいたので事前に調査をしたのかもしれないが――に全てのスタッフを把握し、第一助手の祐樹に渡すためにこの書類を作成してくれたのだろう。
口頭で指示出来る内容だったが。手術室で祐樹に注意をするのと、予め書類にして手渡しているのとでは全く異なる。この内容を頭に叩き込んでおけば、何も知らない手術スタッフは祐樹独自の判断だと思い込んでくれる。祐樹の株を上げるためにだけ作られたこの書類をこの上もなく愛しく思った。
そして、祐樹の母親の件で思い惑っていた彼がこれだけの完成度――祐樹もスタッフを実際に見ている。その祐樹が懸念したことも全て網羅されている上に、気付かなかったことまで詳細に書かれている書類を短時間で作成出来た彼の能力の高さ――に改めて惚れ直した。
全てを暗記してから布団に入った。携帯電話のアラームを忘れないようにセットしてから。
翌朝、身支度を調えて彼が朝食を誘ってくれた部屋に行った。彼も出勤準備を整えて部屋に居た。
「お早うございます」
「ああ、お早う」
部屋には仲居さんが居たので丁重に頭を下げる。旅館の朝ご飯――といっても超豪華版だったが――がテーブルに並べられている。旬の季節ではないので冷凍モノだろうが太いカニの足の刺身やデザートにはメロンが大振りに切られている。
「座っても宜しいでしょうか?」
「ああ、構わない。昨日の打ち合わせの続きをしたいので、済みませんが下がって下さい。後はこちらでしますので」
仲居さん数人に彼はそう言ってから、一番偉そうな仲居さんをさり気なく呼び、小さい祝儀袋を渡している。
「まあ、教授。お心遣い有り難うございます」
お若いのに感心なこと……という感じの表情を浮かべた仲居さんは食卓に手抜かりがないかを確かめてからそっと部屋のドアを閉めて出て行った。出て行く間際に丁重な礼をしていたが。
「貴方が旅館の心得を知っていたのには驚きました」
祝儀袋の準備など日本にずっと居る祐樹ですら思いも寄らない。心づけを渡した方が良いことは知っていたが。
「実は長岡先生から聞いた。旅館に泊まるのは初めてだから、失礼のないようにしようと思って。その点彼女は名だたる高級旅館の殆どに宿泊経験が有る。しかも全部貴賓室だ。中には天皇陛下がご宿泊された部屋もたくさんあるとか……」
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