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最終章 第6話

 大振りのメロンはどのくらい果実を残して食べたら失礼に当たらないか?などと小市民的なことを考えていた祐樹は改めて長岡先生とその婚約者――東京でも有数の私立病院の御曹司である岩松氏――の豪華な生活振りを垣間見る。そういえば彼女のエンゲージリングはダイアモンド鯛の目玉ほどだったな……と思う。いくらするのかは見当もつかない。ペリコプター1台の値段を普通の人間が知らないのと同じだ。祐樹にとってダイアモンドもヘリも同じくらい購入にはなじみがない。 「そういえば、長岡先生の指輪…店偶然拝見する機会がありました。あれは確か貴方と一緒に買いに行ったのですよね?」 「ああ、婚約者が多忙を極めていて一人で買いに行くようにと言われた長岡先生は困惑しきって相談に来たから。ダイアモンドがどこに売っているか分からなかったそうだ。私が『ティファ○ーではどうか?』と言うと『NYまで買いに行かなければならないのですか?』と泣きそうな顔で聞いてくるので。それでつい……」  皿の上の食べ物を胃の中に収める作業をしつつ、長岡先生の突飛なエピソードがいかにも彼女らしいのでつい話しに聞き入った。 「ナゼNYなんですか?京都の百貨店にも店舗がありますよね?」  余りにも突飛すぎて続きを促した。彼も面白そうに淡い紅色の唇を弛める。 「彼女は東京生まれの東京育ちだ。留学経験も有るらしいが……。私がこちらの大学に招聘されたので付いて来て貰ったが、彼女は京都には御所とお寺しかないと思っていた。  百貨店の存在すら知らずで……移動は全てタクシーだから。  私も婚約指輪や宝石店などには疎いが、ティ○ァニーだけは知っていたし、百貨店の場所も知っていた。だから、彼女に付き添って買い物に行ったのだが……」  これが他の女性なら考えられないことだが、何しろ長岡先生だ。驚くには当たらない。有名な往年の映画の連想でNYにしか店舗がないと思い込んでいたとしても彼女なら頷ける。が、その直後、彼は不味い物でも食べた表情に変わる。 「その場面をナースに見られていたとは思わなかった……ですよね?」 「ああ、あんな高級店に病院関係者が居るとは思わなかった……油断だったな。それで祐樹には誤解されてしまうし……」 「貴方が女性心理に疎いのは良く分かっています。買えなくても、綺麗な宝石を見るだけでも良いという女性はたくさん居ますよ?  誤解……というか、今思えば嫉妬だったと。  どれだけ貴方が仕事に真摯に取り組んでいた結果がこの病院でのポジションだということを迂闊にも理解せずに、天賦の才能に恵まれて年もそんなに違わないのに……社会的成功と――その時はまだ長岡先生のことを良く知らなかったので――完璧な才色兼備の女性と結婚するのかと思うと平静ではいられませんでしたね……貴方の内面もこんなにも素晴らしいことも知らなかったですし。空港で正式に初めてお会いした時から外見はとても好みでしたが」  女性心理どころか恋愛心理にもとことん疎い彼のことを笑う気には到底なれなかった。  祐樹も彼がどんな想いで祐樹を見ていたのか全く気付かなかったのだから。  ただ、長岡先生は良いとして、中山准教授のようにあからさまな彼狙いの女性はこれからも出てくるだろうな……と思う。彼が全く気付かない以上、祐樹が防御するしかないのだが。祐樹は彼と離れるつもりは金輪際ないのだから。 「指輪……か……」  彼がポツリと呟いた。その口調が少し気になる。 「欲しいですか?テ○ファニーは……流石に無理かもですが……私でも買える金額のモノなら……」  彼御用達のフランスの老舗高級ブランドの商品ラインナップに指輪があるかどうかは知らない。ただ、彼が望むならなけなしの定期預金を解約してでも渡したいが。彼は仄かに微笑んで言った。 「いや、祐樹がくれるのなら、どんなものでも嬉しいが……そういう意味で言ったわけではない。幼い頃、母が特別な日に小さなダイアモンドの指輪をしていて……それをとても嬉しそうに眺めていたことを思い出して。今思えばエンゲージリングだったのだろうな……と。熱烈な恋愛結婚だったといつか聞いたことがある。きっと2人は天国で仲良く暮らしているだろう……な」  幼い日の幸せな家族との暮らしを思い出したのだろうか。彼の瞳が追憶と懐かしさの情を湛えていた。 「きっと御両親は貴方の社会的成功を喜んで下さってますよ」 「そうだな……それに今は充分幸せだし。祐樹が居てくれるので」  またそういうことをサラッと言う。極上の微笑みと共にそんな言葉を言われたら祐樹の心臓に悪い。彼とは一緒に居たいが彼に手術して貰おうとは――いや、本当に心疾患が見つかったら彼に執刀して貰いたいが――思わなかった。  彼は腕時計を見た。食卓の豪華な朝ご飯は殆どが2人の胃の中に消えていた。 「そろそろ迎えの車が来る頃だ。行こうか?」 「はい。お供致します。香川教授」  言葉だけは丁寧だが表情は笑いを湛えてそう言うと彼も優しげな微笑を返してくれた。  病院のエントランスを入ると大勢の医療関係者が――流石に手術スタッフは準備があるのでそこには居なかったが――全員緊張した表情で出迎えてくれるのには正直迷惑する。  多分前に立っている彼も眉間にわずかな曇りを宿しているに違いない。松田病院長が直々に挨拶の言葉を述べているのを丁重に遮って、彼は準備室に案内してくれるようにと促した。  事務局長と名乗った人が緊張した様子で案内してくれる。大学病院と違う点は教授専用の準備室がないくらいだ。手術設備は充分整っている。が、設備だけではどうしようもないのが手技の冴えだ。彼ほどの適任者は日本には1人しか居ない。  彼の正確かつ華麗でスピードのある手技について来られるスキルがあるスタッフは、多分この病院には存在しないだろう。昨日彼から貰った書類を頭の中で反芻しながら、横に居る彼の手早い準備に瞠目した。手術用の「手洗い」など、新米の研修医なら2時間は掛かるシロモノだ。祐樹も慌てて彼の速さに付いていこうとした。  彼の動作には無駄がない上に最小限の動きで最大限の殺菌力を引き出している。第一助手が執刀医よりも遅れて手術室に入ってはならない。辛うじて彼より先に手洗いを済ませて手術用の手袋をはめた。  彼にそそくさとだが充分に愛情を込めた会釈をして先に手術室に入った。30秒後――多分、祐樹が準備室を出た時から時間を読んでいたのだろう――若く端整な顔に執刀医としての重々しい威厳を漂わせて彼が手術室のスタッフ用の足で操作する自動扉から入って来た。  時間は9時ジャストだった。  祐樹と目が合う。手術用の大きなマスクに覆われた彼の顔で唯一露出している瞳は冷静で穏やかな光を宿していた。祐樹が「まかせておいて」と目で合図すると、彼の雄弁な瞳が「任せた」というメッセージと共に適度な安心感を伝えてくる。  視線が絡み合うメッセージ。  そう言えば彼との手術の前には必ず視線を合わせていたなと手術に集中しながらも頭の隅で想起する。初の手術の時から。ただ、その視線は回を重ねるごとに信頼度を増してきたように思う。 「執刀を開始します」  彼の涼やかで落ち着いた声が手術室に響き渡る。決して大きくはないが耳に心地よい。 それは惚れた欲目ではなく、手術スタッフも適度な緊張感と集中力を促す声だった。  その一言で手術室の動きが本格的に稼働する。  彼のメスの冴えは祐樹が今まで見てきた中でも特にシンプルかつ華麗だった。  手術は完璧に成功して祐樹は心の底から安堵した。実は内心ハラハラしていたので。患者さんがICUに搬送される。こちらには心疾患専用の集中治療室が存在しない。  山崎外科部長は手術が始まる前こそは「どうして研修医風情が第一助手で、自分は第二助手なのか?」と憮然とした表情どう取り繕ってもチラリと垣間見せていたが、祐樹の的確な手術スタッフへの指示に手術が無事終わると感心した表情で祐樹に近寄って来た。 「いやぁ、流石に香川教授の懐刀と呼ばれるだけのことは有りますね。とても勉強になりました。やはり大学病院の心臓外科の専門医は、市民病院とは比べ物にならない」 「いえ、山崎外科部長は様々な手術を執刀なさいます。私は心臓バイバス術の経験しか有りませんので……またこちらに参る機会がありましたら山崎外科部長にもご指導ご鞭撻をお願いする次第です」  この程度の社交辞令は大学病院で生き残っていくためにも必要だ、心にもないことを言うのは全く苦にならない。山崎外科部長は笑顔で握手を求めてきた。  手術も無事成功したのだし、次は祐樹の母親を見舞う番だ。ただその前に手術報告書を提出する義務が有るが。

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