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最終章 第7話

 しかし、少々疲れた手術だった。大学病院では各々の役目が決まっていて専門的にも熟練している。道具出しのナースは――最悪だった星川ナースは別格だが――反射神経と運動能力の有るナースしかなれないし、医師もそれぞれ専門のキャリアは充分で。  祐樹の出身地ではあるが、M市民病院では多種多様な外科手術を行う――それが大学病院と地域密着型の病院との相違だ――こともあって、全てにおいて物慣れない。執刀医に代わって指示を出すのは祐樹の役目で…いつもの第一助手としての務めに加えてスタッフへの細かな指示出しをするという余計な神経を使うことになった。彼が予め作成してくれていたマニュアルがなかったら……と思うと背中に汗が伝う。  今は手術報告書を纏めている最中だ。松田病院長は、彼の執務室を香川教授に明け渡し、第一助手の祐樹には山崎外科部長の部屋を用意していると告げた。香川教授に病院長の執務室を割り振るのは社会的ポジションからすると当然の措置だが、研修医の祐樹に外科部長の執務室を用意してくれたのは破格の扱いで……(これは教授の七光りなのか、第一助手としての活躍の賜物か?)と一時悩んだものだったが。最愛の彼はしごく平静な表情で淡々と大嘘を吐く。 「いえ、我が医局では報告書は一つの部屋で書く習慣がありますので」  そう断言した。2人きりの時には羞恥の表情や様々なニュアンスを帯びた笑顔を見せる彼だったが彼も「大学教授」という表の顔が定着してきているのだろうか? 「やはり心臓バイバス術の第一人者は仰ることが違います。わたくしめの執務室を使って戴けるとは極めて恐悦至極の至りに御座います」  感心した余りか、また怪しげな時代劇風の言葉遣いに戻った松田病院長は執務室を開け渡してくれた。今彼がどこで仕事をしているのかは祐樹も知らない。  松田病院長の執務室――会議室などではパソコンの用意がないので――を借りている。  手術報告書は、手術スタッフの中の実際に患者さんの手術に関係した医師が書く決まりだ。松田病院長の指図か祐樹以外の医師は最優先で提出済みだ。  祐樹はパソコンに向かって報告書を作成中で、最愛の彼は既に提出された山崎第二助手の報告書のチェックと「留意点」や「問題点」を書き加えている。  これを書いて病院長に提出しなければ仕事は終らない。書類作成の合間にチラっと彼の表情を窺うと時々手を止めて物思いにふけっているようだ。祐樹の母親に会うことを考えているのだろう。彼が執務中に他のことを考えているのを祐樹は見たことがないので。  ただ、昨日の海岸の散歩が良かったのか少し緊張はしている様子だが、昨夜までのような罪悪感を持っているような感じではない。 「出来ました」  プリントアウトして、誤字脱字がないかチェックしてから彼に渡す。ざっと目を通して――と言っても彼のことだ、全部暗記したのだろう――。 「祐樹、もちろんデーターはメモリーに落としてあるだろうな?」  基本中の基本のことを聞かれて面食らう。 「ええ。それはもちろんですが?」 「では、そのデータに上書きしても構わないか?時間が惜しい」 「はい」  普通は上書きなどしない。が、彼には彼の思惑があるのだろう。黙ってメモリーカードを渡した。個人情報流出の恐れがあるので大学病院ではメモリーカードなどのメディアへの保存は決して許されない行為だが――手術報告書はインターネットに接続されていないパソコンで作成し、ハードディスクに落とすのが表向きの規則だ。  祐樹のメモリーカードには患者さんの年齢・性別・病名・既往症、そして手術の様子が時間経過に沿って書かれている。流出を恐れて名前は書いていない。ファイルの名前も「M市民病院手術A」だ。これで匿名性は守られる。  彼は一流のピアニストが楽々と難曲を弾きこなすようによどみなく、また華麗にパソコンのキーを白いしなやかな指先で叩いている。タイピングも祐樹がこれまで見た人の誰よりも早い速度だった。手術の経過などは通常なら記憶を辿り辿りするものなのでどうしても手は止まる。それなのに彼の流麗なタイピングは全くその速度は変わらない。ただ、先ほどまでは山崎外科部長の報告書のチェックをしていた時は時おり祐樹へと視線を流していたのは知っていたが、今の彼はパソコンの画面とキーボードに集中しているようだ。  祐樹も外科医の端くれなので、いくら熱中していても集中力が一箇所に集結することはあり得ない。どこか冷めた部分が他の情報を収集しようと働いている。そうでなければ同時多発的に起こる患者さんの外傷の手当ては出来ない。  といっても、祐樹以上に外科医として適正のある彼は現在の状況――手術や処置ではなく書類作成、しかも室内には祐樹しか居ない――を良く分かっていて一つのことを集中しているのだろうが。  彼が仕事上で真剣な顔をするのじっくり眺めることのはこれが初めてのことだ。  もちろん手術中はこんな表情を浮かべているのだろうが。祐樹も自分の務めをこなすのに精一杯だし、その上、手術用マスクで顔の大部分が隠れている。辛うじて見えるのは彼の綺麗に澄んだ透徹な眼差しだけで。それも手術が始まる前にチラリと眺めるだけで精一杯だ、手術のことを考えながら。その後は患者さんに集中するので彼の表情を確認する時も常に仕事用の頭で考えている。観賞などもっての他だ。  パソコンのキーを叩きながらも手術の経過を思い出しているのだろう、少し眉を顰めた彼の怜悧な表情もとてもとても魅力的だった。まだ仕事中なので白衣を着ているのもストイックさと冷徹さに拍車をかけている。もともとが涼しげで端整な美貌の持ち主だけにその雰囲気が良く似合う。  祐樹の腕の中でしか見せない艶めいた様子とのギャップにもそそられる。キチンと上のボタンまで留めた白衣の下は几帳面に結ばれたネクタイとワイシャツだ。それらを中途半端に脱がせて机の上に押し倒すのもとても扇情的だろうな……。  祐樹は提出してしまったので差し当たりすることがない。彼の姿を凝視しながらラチもない妄想に耽ってしまう。男というのは疲れた時には性的な妄想が膨らむ生き物なので仕方ないのかもしれないが。逆に仕事を頑張るぞと思っていたら性的なことは頭から消えるのだが……。   ふと彼の手が止まった。 「何か?」  清潔そうな澄んだ瞳で見詰められると考えていたコトがコトだけに後ろめたい。 「いえ、何でも……」 「そうか…」  彼はどうやら書類作成を終えたらしい。プリンターの方へと長い脚を運んでいた。  書類を一瞥してからホッチキスで留めてから祐樹に差し出す。 「これで間違いがないかチェックして欲しい」  読んでみて驚いた。祐樹は手術の経過を外科的侵襲――手術のことだ――しか記していないのに彼が上書きした書類は患者さんのバイタルサインや使用した薬剤の名前と量、手術道具――メスやコッペルを始めとしてペアンまで――や、バイバス術の際に切り取った大動脈の部位やその範囲までを事細かに記してある。最後には「文責・田中祐樹」と記してある。  これを全部覚えていたのか…と今更ながらに彼の才能に舌を巻く。 「記憶している限りでは間違いは有りません」  おぼろげな記憶を総動員して間違いをチェックするが完璧だった。ここまで差を見せつけられると腹も立たない。ただ感心するばかりだ。  彼は時計を見ている。 「まだ面会時間が終わる時間ではないだろう?」 「この病院は7時までですので、時間は充分ありますが?」  まだ3時過ぎだ。食事は松田病院長が届けてくれた祐樹達が泊まっている――といってもチェックアウトは済ませたが――旅館の特製(だと思しき)極上の幕の内弁当を書類作成の間に済ませていた。 「では、執刀医としての最後の仕事をする。30分で終るから」  そう言うと、彼は祐樹が作成――というよりもあの出来ばえでは叩き台と表現するのが相応しい――した文書を見ながら、またパソコンに向かう。  祐樹は完璧に見えるあの文書のどこを直すのだろうと彼の真剣な顔の観賞は断腸の思いで中断してモニターの画面に現れる文字を読んだ。手術の反省点が逐一現れることに驚いた。曰く、侵襲口のミリ単位の改善点や動脈の切り口の僅かな角度のズレなどだ。普通の執刀医ならそこまでは細かく書かない点まで詳細に書いてある。最後には執刀医のみに許される手書きのサイン。 「そこまで書くのですか?確か、手術の様子は録画してありましたよね?」 「録画はこの病院のためだ。もちろんコピーは貰うが。これは私の手術への自戒を込めた文書だ。これを松田病院長に提出してから……祐樹のお母様に会いに行こう」  不安と期待がない交ぜになった表情で彼は静かに言った。

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