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最終章 第8話

「さて……と。この報告書を提出すれば仕事は終わりだ。ただ、松田病院長はどこにいらっしゃるのだろうか?」  松田病院長は彼のために自室を空け渡してくれているので当然といえば当然の疑問だった。 「電話機の下に内線番号のメモも隠れている型のようですのでスライドして下さい……事務局の内線番号も書かれているハズなので……事務局長なら居場所を把握しているのでは?」  彼は感心した眼差しで祐樹を見た。 「良く分かったな……祐樹は凄い……。私1人なら途方に暮れている……」  褒められても余り嬉しくない。というのも、彼の大学病院の執務室も同じタイプの電話機だ。平常心だったらそのことに直ぐ気付くだろうから。手術報告書を書き終えたことでまたプライベートな心配が彼の優秀な頭脳を占領しているらしい。  事務局長の内線電話に祐樹が電話した。案の定、病院長の居場所は把握していたらしく電光石火の早業で病院長は自室に戻って来た。 「執務室をお借りして申し訳ありませんでした。日常業務に差し支えは有りませんでしたか?」  そう言って、彼は執務机からすらりと立ち上がろうとする。 「いえ、とんでもことで御座います。どうかそのままお寛ぎ下さると恐悦至極の極みで御座います」  平身低頭というかコメツキバッタというか、とにかく研修医の祐樹にまで腰が低い。何だか祐樹は時代劇の「遠山の○さん」のお白州の場面に立ち会っている奉行所の役人になったような気がした。  彼が祐樹に目配せをする。手術報告書と交互に祐樹を見ているので――彼は病院長の椅子から離れられない雰囲気だった――先ほど彼が署名した完全な報告書を祐樹は病院長に手渡した。  一読した病院長は恐縮した様子で頭を下げた。 「教授の神業とお呼び申し上げる以上の言葉はわたくしめには思いつきませんが、手術スタッフもとても良い勉強になったことと思いますのに、こんな完璧な報告書まで作成して下さるとは…って誠に欣快に耐えません。手術スタッフも不慣れな手術でさぞかしご迷惑をお掛けしたと愚考致します。平にご容赦を」  何だか土下座しかねない勢いの病院長に彼は平静な表情で言う。 「いえ、こちらの病院の先生達はとても熱心ですね。これも病院長のご薫陶の賜物だと思います。これからも、私で宜しければ時間の許す限り執刀に参りますので」  時代劇風の大仰な言葉遣いに祐樹は失笑しそうになるが。彼はアメリカ生活が長かったせいかそんなに動じていないらしい。 「ははっ、有り難き幸せに存じ奉ります。  こちらは、教授が御所望になられた患者さんの全てのカルテで御座います。  そして、こちらはお近づきの印の……」  日本史で習った徳川将軍や天皇陛下に直訴状を差し出す人もこんなふうにして差し出したのだろうな……と思わせる恭しさと畏れ多さを恰幅の良い身体中に漲らせて2つの封筒を差し出す。  大きな封筒には多分祐樹の母親の投薬記録や様々なデータが入っているのだろう。そして小さな封筒には多分現金か商品券、それもかなりの嵩高さだった。 「こちらだけ頂きます。私は大学病院から派遣されて来た医師です。派遣の報酬はこちらの病院と大学病院とで取り決めがなされているはずですから。それ以外は謝絶致します」  大判の封筒だけを受け取るように祐樹に目配せをした。 「平にご容赦を。これからもどうかよしなに。手術の成功を祝って一席を設けさせて戴いておりますが……」 「いえ、手術も無事に終わりましたし、ICUの患者さんの容態は如何ですか?急変した場合の対処法もその報告書に書いてありますので……それでも対処不能ならば、携帯にでもお電話下さい」 「はい、順調に回復に向かっていると山崎外科部長が申しておりました」 「そうですか。それは良かったです。では私はこれで失礼致します」  白衣を脱ぐといつもの端整なスーツ姿になる。 「では、お見送りをさせて戴きます」  白衣を預かると病院長は自分の卓上電話を取り上げた。また病院スタッフに招集をかける積りだろう。 「いえ、ここで失礼致します。外科の皆様には宜しくお伝え下さい。休日に無理を申しまして申し訳ありませんが、これからの予定も押していますので……」  祐樹も白衣を脱ぐ。と病院長はこれも丁寧に受け取った。  大判の封筒を持ったまま彼の後ろに付き従う。病院長は茫然自失のようだった。彼が純粋に手術だけをしに来たとは思ってもいなかったらしい。まあ、祐樹の母親のカルテを手に入れるという不純といえば不純な動機もあったようだが。 「少し、この病院に用事が有りますので、私の乗って来た車は病院の玄関に回して下さるようにお願い致します。受付にでもキーは預けていて下さい」 「お供致しても……?」 「いえ、ここからはプライベートなことなのでどうか病院長は通常業務を……」  キッパリと言われ、病院長は頭が恰幅の良いお腹に付くほどのお辞儀をした。  丁寧にドアを閉めてから、彼は祐樹に尋ねた。 「お母様の病室に行こう」  そう言われて迂闊にも母の病室が大部屋から個室に移っていることに思い至った。 「スミマセン……部屋が変わっているんですね……。内科に行けば分かると思います」  彼の懊悩が余りにも深かったため、母には今日の見舞いのことは話していない。場合によっては見舞いがなくなるかもしれなかったので。 「そうか……。では一旦、外に出てからお見舞い用客用の通路から入ろう」 「それならこちらです」  彼は緊張を隠しきれない口調だった。祐樹も滅多に見舞いには訪れていないが、数回は来ている。内科病棟の見舞い客としてナースステーションに寄った。対応に出たナースは祐樹とその後ろに佇む最愛の彼の姿を憧憬を含んだ唖然とした感じでして眺めている。ナースステーションに居たナースはマジマジとこちらを眺めている。一瞬、ナゼそんな驚いた顔をするのかは分からなかったが。そういえば彼を出迎えた医療関係者は多い。彼女達もその中に混じっていて彼の顔を覚えていたのだろう。 「ご、ご案内致します」  祐樹まで雲の上の人を見るような目つきで一瞥し、緊張した様子で歩き出す。 「いつも母がお世話になっています。なかなか見舞いに来られなくて……」  彼女の緊張を解そうと話しかけた。 「え?田中さんの息子さん……ですか?そういえば……何となく似ていますね。主治医の先生をお呼びいたしましょうか?」  後ろを歩く彼の姿を憧憬の眼差しで一瞥してから祐樹に言う。やはり祐樹のことも彼のことも知っているらしい。 「主治医の先生が話したいことがお有りになれば別ですが…店今日は純然たる見舞いですので……お気遣いなく」  主治医の先生が入ると余計にこんがらがりそうだ。奥まった病室に案内される。個室らしいが「奥まった」という点で祐樹は安堵する。重篤な患者さんはナースステーションから近い場所に部屋を与えられることは病院では常識だったので。 「田中さん、ご子息がお見舞いにいらしています。開けてもいいですか?」  祐樹の傍に立った彼が息を殺しているのが分かる。 「後は水入らずの話しがしたいので……」  案内してくれたナースに頭を下げて、この場から去ってくれるようにと頼む。ナースは弾かれたように丁重なお辞儀を2人にしてから去って行った。 「どうぞ」  元気そうな母の声がした。彼の表情を覗き込む。彼の瞳が不安定に揺れている。  祐樹は彼のしなやかで長い指にそっと自分の指を沿わせる。彼が僅かに頷く。その表情を確認して病室のドアを開けた。 「見舞いに来たよ。どう?変わりはない?」 「ああ、わざわざ済まないねえ。そちらの方は?」  母は寝巻き姿だったが――入院患者なのだから当たり前だ――薄化粧をしている。珍しいことに。祐樹が1人で見舞いに来た時は素顔だった。祐樹の後ろに佇む彼をじっと見詰めて当然の質問をして来た。 「上司だよ。お母さん。ちょうどこちらで手術が有ったので」 「それはそれは……いつも愚息がお世話になっております」 「初めまして。香川聡と申します。田中先生は私の右腕で……得難い部下です」  表情や口調はいつもの彼だが、他の人間が居る仕事場で祐樹を呼ぶ時、彼は「ゆ……田中先生」とフト口にしていた。それがないということはかなり緊張しているか予め練習してきたのか……そのどちらかだろう。 「今日手術……って……、心臓外科の香川教授ですよね?想像していたよりも随分お若くていらっしゃる。失礼ですが、年齢は?」 「29歳です」  彼がそう言うと母の瞳が考え深そうに瞬いた。

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