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最終章 第9話

「それでは、うちの愚息よりも2歳しか年が離れてらっしゃらない?」  母はベッドに半身を起こしていたが、正式に挨拶をするためか床に降りようとする。目には考え深そうな光を湛えていた。 「いえ、どうかそのままでいらして下さい。医師が見舞った後に体調がお悪くなられては困りますので」  彼の手が母の肩に優しく触れる。その指を眺めていた母だったが。 「そうだよ、教授は医師免許取得後、直ぐにアメリカに渡って向こうで手術の研鑽を積み、充分な実績を積まれてウチの母校に凱旋帰国なさったんだ。向こうは完全な成果主義だから……。ただ実際ウチの教授のポジションに相応しい、いやそれ以上の腕の持ち主だと思う。色々お世話になっている。俺の指導医でもあるので……お母さんにも紹介したくて……」 「それはそれは……昨日から香川教授の噂で病院内はざわめいていたよ……祐樹の所属する医局の長だということも漏れ聞いていたし……万が一祐樹がお供で来るかも知れないと私は密かに期待していたので嬉しいよ。それに香川教授が直々にお見舞いに来て下さるとは思ってもみなかった……祐樹と2つしか違わないと聞いてびっくりしたけど……」  母は肩に掛けられた彼の指と顔を交互に見ている。時おり祐樹の表情を窺うように見ているが。彼は長くしなやかな指で母の枕元の壁に掛けられたカーデガンを母に着せ掛けている。その指が幽かに震えていることに気付く。 「いえ、そんな……私などまだまだです。アメリカでチャンスに恵まれまして……思いがけなく執刀医としてのキャリアを積むことが出来ました。ただ、それは……向こうの病院で執刀医の先生が不幸なことに手術中に手の怪我をなさったからで……。もし、そんなアクシデントがなければ、向こうの病院で手術助手のままです。そうなれば母校の教授のポジションが空いても招聘はされなかったでしょう」  いつもの怜悧な声で淡々と語っていたが、少しだけ早口だ。やはり緊張しているらしい。 「それにしても、教授と言うからにはドラマなどでは40代以上のポジションです。素晴らしい出世ですね。うちの愚息とは大違いです」 「いえ、田中先生は私の右腕です。今回この病院で執刀依頼を受けた時に迷わず先生に第一助手をお願いしたくらいですから」  彼が真摯な口調で答えると母は満足げに笑った。 「うちの愚息は、親の私が言うのもナンですが……能力は有るくせにどこか仕事でも生活面でもいい加減なところが有って……。いや、見舞いに来てくれないとかそういうんじゃないよ……仕事上でも手綱を締めて貰わないと能力に見合った成果が出せないという欠点があります。  なので、どうか愚息のことを宜しくお願い致します」  母はベッドの上で彼に深々とお辞儀をした。 「はい。ただ、仕事は完璧ですよ。私も随分と助けられましたから」 「そうですか?お役に立てて何よりです」  母は嬉しそうに笑っている。彼もつられたように母に向かって微笑みを浮かべた。 「ところで……お母様のご容態のカルテなどをウチの医局でも検討したいのですが……その許可を戴けますか?」  母は怪訝な顔をする。 「こちらの病院にお任せしてありますが……何か不審な点でも?」  彼は真摯な表情で母を説得している。本来ならば、今祐樹が持っている母のデータを黙ってもって帰り、仕事だけは頼りになる長岡先生なり、イレギュラーではあるが内科の内田講師に見せれば良いことなのだが。あくまでも彼は患者さん――と言っても今回は祐樹の母だが――の了解を取り付けようとしている。几帳面な彼らしいが。 「『セカンド・オピニオン』という制度があります。掛かり付け医だけではなく、その医師が提出した治療方法や投薬などが果たして妥当だったかを検証する制度です。この規模の病院でしたら主治医は1人、それも外来患者さんの合間を縫っての診察です。万が一の見落としや思い込みで治療されていないかを懸念してしまいます。大学病院の専門医にカルテなどを見せてみたいのですが……」  母は考え込む風情だ。祐樹に視線を当ててくる。 「どうしたものだろうね……特にこの病院にも先生にも不満はないのだけれど?」 「母さん、他の先生の意見を聞くのも大事だよ。それに、言葉は悪いけれども大学病院の方が専門の先生も揃っている。治療方法に間違いがないことを証明して貰えればそれでいいし、万が一間違いがあればそれを指摘して貰えるんだから、この際香川教授の提案に賛成したらどうかな?」 「主治医の松元先生が何て仰るか……。気を悪くなさらないかねぇ……」 「大丈夫だって……その点は心配しなくていいから……。この病院で香川教授の意向に反対する先生は居ない」  松田病院長からして、時代劇の観過ぎなのかもしれないが教授には時代劇風の言葉遣いだった。水○黄門の正体を明らかにした時の悪代官のような。それに松元先生は出迎えの時に祐樹と教授を見て呆然としていたっけ。あれなら教授の意向には絶対に逆らわないだろう。 「では、宜しくお願い致します」  母は彼に向かって深々と頭を下げた。彼は戸惑いと狼狽を雄弁な瞳に宿している。といっても、祐樹にしか分からないだろうが。 「有り難う御座います。早速大学に持ち帰りまして部下に精査させますので……。田中先生も、お母様と会うのはとても久しぶりなのだろう?親子水入らずで話したらどうだ。私は他人なのだから。病室の外で待っている」  そう言い置くととひらりと身体を反転させて、祐樹が止める間もなく病室から静かに出て行った。最後に母に深々と頭を下げていた。 「なかなかさ、見舞いに来られなくて悪かったよ。ええと、具合はどう?」  彼のシトラス系の残り香が切なく薫る母の肩に手を置いて聞いた。最後に見舞いに来たのは……っと思い返してかれこれ一年以上前であることに気付く。 「透析は辛いけど、仕方がないね……。  ところで、あの香川教授が祐樹の恋人かい?」  イキナリの直球にどう答えれば良いか咄嗟に迷った。時間稼ぎの積りで質問してみる。 「どうしてそう思うの?」 「いつぞやの電話で『恋人が出来た。相手は二歳年上で、籍は事情が有って入れられない』って言ってたじゃないか?それに、香川教授は専門と祐樹と同じ心臓外科だろう?それなのに私の病気は内科で専門外なハズなのに……とても親身になって私のことを案じてらっしゃるのが分かる。それに病室が変わったのも香川教授のお陰だ。普通の上司と部下ならそんなに便宜を図らないと思ってね。  それに、祐樹の雰囲気がビックリするぐらい変わった」  イチイチ母の言うことは尤もだと思う。が、最後の言葉に引っかかりを覚えた。 「そんなに雰囲気変わった?」  母は目を細めてほのかに笑う。 「ああ、変わった。前に会った時はもっと雰囲気がちゃらちゃらしていた。自分の才能を鼻に掛けているところも有ったし――まあ、それはあの大学の研修医とはいえ、医師には違いないのだから自分は特別だと思うのも仕方ないかと思って黙って見ていたものだよ――それが今日の祐樹は自信に裏打ちされた落ち着きが備わったような感じがする。医師としても男としても何だか頼もしいオーラが出ている」  そういえば、彼が凱旋帰国してから祐樹も色々な人生経験を積んだな……と。それが落ち着いた雰囲気に変化したのだろうか?確かに彼を知る前はちゃらんぽらんな自覚は有った。 「いい変化だね。香川教授と付き合ってそんなに人間的に成長出来たなら――それに祐樹の性癖は薄々分かっていた。お前が高校の時くらいから……。それに、私に紹介してくれた人はあの方が初めてだ。  実を言うと、香川教授を一目見た時に『ああ、これは祐樹の好みだな』と思ったよ」 「え?俺の好みなんて知ってるの?」  心底驚いた。確かに恋人を母に紹介したこともないし、高校の時に母に発見されたのは多分ゲイ雑誌で……そんな雑誌から好みなんて分かるのだろうか? 「祐樹の好みは知らないけど……私の好みだから……。親子なんだねぇ、好みまで似ている。ああいう几帳面で優しげで清潔そうな美貌はそうそう居ない」  うっとりと視線を宙に彷徨わせる母を見てとても敵わないなと。 「で、祐樹は香川教授をとても大切に想って愛しているのかい?」  母の表情はとても真剣だった。揶揄の気配は薬にしたくても出来ないほどに。  彼女は彼女なりに祐樹の人生を深く思いやってくれている。それに、何より同性の恋人の出現にも驚いた様子はなく、却って安心したような感じだった。

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