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最終章 第10話

「そうだよ。俺は、彼を、愛している……多分、一生……」  一言一言噛み締めるように母に言う。母は嬉しそうに祐樹を見て私物入れのロッカーの鍵を取り出した。その鍵の掛かる引き出しを開錠して中の物を取り出すように祐樹に命じる。 「その中に青色のビロードの小箱があるだろう?それをこちらへ」  母は大事そうにその小箱を開く。中には多分だろうがプラチナの指輪が入っていた。   端の方に長岡先生のダイアとは比べる気にもならない小さなダイアが慎ましげな光を放っていた。 「これはお母さんがお父さんに貰ったエンゲージリング兼結婚指輪だ。祐樹にその気があるなら彼に贈ると良い。もう私が持っていても仕方がないから。それに香川教授の指の細さは多分お母さんと変わらない……多分サイズ直しは必要ないだろうから、即座にはめることが出来る。プラチナとダイアだよ。といっても小さいけれど……」  小箱ごと祐樹の手に握らせた。良く見るとプラチナにはとても細い線が刻まれ、どうやら植物の茎をかたどっているようだ。その線の行きつく先には白く眩い小さいダイアが花を表現しているらしい。結婚指輪を兼ねていると言うだけのことは有って指輪自体はかなり細い。男性がしていても――多分、彼は仕事場ではしないだろうが――そんなに違和感はないだろう。 「こんな大切なものを良いの?だって結婚指輪だよ?」 「お父さんが亡くなった時以来していなかった…ってって祐樹が気付くハズはない……ね。どうもそれをしているとまだお父さんが生きている気がするし、結構幸せだった結婚生活を思い出して切なくなるから封印した。祐樹に大切な人が出来て、その人――女性でも男性でも――がお母さんの眼鏡に適う人ならその人に祐樹共々託そうと思って大事に保管してたんだけど……やはり、入院生活で少しだけ、くすんでいるねぇ……」  少し残念そうな声だった。 「いや、こういうのは宝石店に行ったら綺麗にして貰えるんだろ?」 「そう聞いているね  それはそうと……香川教授は祐樹のことをどう思っているんだい?」  八割がた心配そうに、それ以外は好奇心に溢れている口調と表情だった。 「……それは……多分……同じ気持ちだと思う……」  恥ずかしさのあまり口調が乱れた。それを誤解した母は祐樹に似た――と親戚から良く言われる――キツい眼差しで追及して来た。 「まさか、祐樹が強引に迫って、教授がほだされて付き合っているんじゃないだろうね? あの人は、仕事は有能かも知れないが……祐樹よりもプライベートな場面……特に恋愛沙汰には疎そうだ。ただ、もしそうならお母さんは許しません」  母の慧眼さにはつくづく参ってしまう。確かに最初は祐樹が強引に誘ってホテルに連れ込んだという経緯もある。「恋愛沙汰に疎い」と聞いて、思わず「ビンゴ!」と叫びたくなる。最近では中山准教授の一件が有っただけになおさら。 「じゃあ、どうすればいいの?」  半ば不貞腐れて聞いてみた。これも肉親の気安さだ。 「そうだねぇ……私の目の前で教授の真意を聞くと安心するよ……」  初心な彼にそんな重圧は掛けたくなかったが。ただ、最近流行りの人前結婚のように彼の真意を母だけにでも告白してくれたら…手という希望の火も灯る。  もし、祐樹の母に否定したとしても、そう腹は立たないような気がする。何せ手術と情事の時は大胆だが、こういう問題になるととても恥ずかしがり屋の彼なのだから。  指輪をケースごと、ポケットに入れる。母に感謝のジェスチャーを贈ってから。  病室を出ると彼が落ち着かない風情で佇んでいた。いつもはとても静かで落ち着いた雰囲気を――職場ではポジションに相応しく落ち着いていたし、彼のマンションでは祐樹が傍に居ることでリラックスした落ち着きを――醸し出していたので。 「祐樹、お母様のお見舞いは終ったのか?」  彼の瞳の光が揺れている。こんな彼の顔を見たのは、今は亡き――といっても病院には居ないという意味だが――山本センセの興信所を使った尾行などの調査の時に祐樹が彼に悟られないように距離を置いた時以来だと思い至る。 「母が貴方を気に入ったようです。もう一度、戻って戴けませんか?」 「……そう……か?気に入って戴けたのは本当か?」  信じられない顔をする彼に、極上の笑みを向けた。その笑顔で「気に入られた」と言う祐樹の話しに信憑性を感じたのだろう。祐樹が促すと、再度病室のドアを開けた。母のベッドサイドに2人して立つ。 「愚息が香川教授のことを愛していると言っていますが、貴方はどうなんですか?もし、愚息の強引さに引き摺られて付き合って貰っているのなら、この母が責任を持って愚息を説教しますので、ここで遠慮なく仰って下さい」  母は顔こそ笑っているが、目は真剣そのものだ。祐樹よりも彼を慮っているのがヒシヒシと伝わる。  彼は祐樹の顔に表情を確認する視線を送ってきた。苦渋の表情も混じっていたが。  この場面で祐樹の顔を覗き込むということは、母には彼の気持ちを吐露する意味も有るということも分かっていないらしい。祐樹は彼の澄んだ瞳を凝視して力付けるように頷いた。 「申し訳ありません。  私はお母様が大切に育てて下さった祐樹を愛してしまいました。お母様に会わす顔がなくて……こちらへのお見舞いも再三辞退したのですが……。本当に何とお詫びして良いか……。ただ、祐樹が良いと言ってくれている間はこの世間では認められない関係を続けたいのです。けれどもお母様はさぞご不快だと思います。自慢の令息をこんな関係に引きずり込んだのは全て私の責任です。許して下さるとは思っていません。心を込めて謝罪するしか……私には思いつきません。本当に申し訳なく思います。大事に育てられた令息にこんな恋人が居るとお分かりになってさぞかし落胆なさったでしょう。私さえいなければどんな縁談も思いのままだった筈ですし……」  彼は話しながら頭をベッドに着くくらいに何度も折り曲げて陳謝の気持ちを身体でも表現している。  母は唖然とした表情だったが、彼の言葉の切れ目にやっと切り込んだ。 「いえ、私が確認したかったのは……愚息が貴方を一方的に想った結果、貴方がそれに巻き込まれた被害者なのではと思っただけです……。大切に育てた……というのも少し違います。  ウチは父親が居ないので、私は仕事が忙しくて愚息が殆ど勝手に進路を決めて、そしてそっちで住み着いています。世間……と仰るなら貴方の方が大変なのでは?教授というポジションだし、閨閥って言うんですか?結婚なども愚息よりしなければならない立場なのでは?いえ、別れろと言っているわけではなく、貴方の将来を考えると、愚息が貴方と付き合うよりも、貴方が愚息と付き合う方こそリスクが大きいような気がして……余計なお世話かしら?」  母の口調はとても親身なもので……彼は真剣さを増した表情で祐樹と母の顔を等分に眺める。 「では、祐樹と付き合うことは認めて戴けるのでしょうか?」 「ええ、それは最初に申し上げた通りです。愚息は私の言うことなんて聞きもしません   しかし……強引に貴方に関係を迫ったのなら、私が何日でも徹夜で説教をして止めさせようと思っていました。貴方がそれで良いのなら、私は全く反対はしません。むしろ貴方のような人が愚息を好きになって下さって有り難いと思っているくらいです」  彼の細い肩が大きく揺れた。端整な顔も泣かんばかりに歪んでいる。先ほどのお辞儀の激しさを物語るように前髪がはらはらと白い額に散っている。といっても、彼の端正な美しさは損なわれていなかったが。 「有り難うございます。  私は両親を早くに亡くしましたので肉親の情というものを身をもって経験していません。  お母様のお言葉に触れて肉親というのはこういうものか…とて思った次第です。  結婚は全く考えていません。祐樹と違って私は多分男性しか愛せない人間ですから……」  それに教授職にも拘っていないのです。学生時代に祐樹に出会って、片思いをしました。その後アメリカに渡ってそこそこの成果を出していたのですが、日本に帰国する決意をしたのは招聘された病院に祐樹が勤務していると知ったからです。もし、祐樹が大学病院に勤務していなかったら帰国はしなかったと思います」  母は泣き笑いの表情になった。 「そんなに愚息を好きになって下さって有り難う。これからも欠点ばかりの愚息ですが、どうか宜しくお願いします。そう、そんなに寂しい境遇でしたのね。私で良ければ実の母親だと思って何でも相談して下さいね。愚息に愛想を尽かした後でも構いませんから」  頭を深く下げながらしみじみとした口調で言った。

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